ケース8 じんめんそう㊵
太陽が昇ると、人のまばらだったことが嘘のように街は人で埋め尽くされていった。
満員電車の中でふと鼻を突く人間の臭いで、かなめは昨日から着替えていなかったことを思い出す。
さり気なく自分の襟元のにおいを嗅ぎながら、かなめは卜部に言った。
「そういえば、わたしもちょっと家に用事が……」
卜部はあからさまに怪訝な顔をしてかなめを睨んだ。
「用事だと……?」
しばらくの間が開いてから口にしたその言葉は疑いの気配で満ちている。
それでもかなめは譲らない。この卜部という男がそんなことには頓着しないと分かっていても、譲るわけにはいかない。
「雅子ちゃんです! 雅子ちゃんに水をあげないと!」
「なに⁉ あれが水を飲むわけ無いだろ‼ だいたい水なんかやったのか⁉」
乗客達が白い目で見るのも構わずに卜部は声を張り上げた。かなめも負けじと声を張り上げる。
「知らないんですか⁉ お、おやつも食べますよ⁉ それをしないと機嫌が悪くなるんです……!」
口から出任せが板についてきた自分に驚きながらも、かなめは卜部を睨み返した。
しばらく卜部は黙っていたが、何かをぶつぶつと呟いてから一言「勝手にしろ……」と話を締めくくった。
後で事務所に向かうことを伝えてかなめはマンションの最寄り駅で降りると家路を急ぐ。
あれで納得するんだな……
先生も案外メルヘンなのかもしれない……
そんなことを思いながら玄関扉を開けると同時に、かなめは小さく悲鳴をあげた。
いる。
雅子ちゃんが、玄関に、いる……
置いてきぼりを諌めるように、その表情は険しかった。
ごくりと唾を呑み、吹き出した冷や汗を拭うと、かなめは人形をそっと両手で抱き上げた。
ずっしりと重くなっているような気がした。
部屋に目をやったが変わった様子はない。
ただ、どこからから湿った臭いが漂ってくる。
恐る恐る人形をキャビネットの上に置き、かなめは思いつきでコップにジュースとお菓子を乗せたものを雅子の隣に置いて手を合わせた。
どうぞ大人しくしていてください……
当初の目的を思い出し、かなめは服を脱ぎ捨てバスルームの戸を開けた。
ぬるり……
バスルームに踏み込んだ途端、足が滑る。
まるでドブ川のヘドロを踏んだような感触に、全身が粟立つ。
見下ろすと足元は黒い液体で覆われていた。足を上げると同時に腐った池のような異臭が鼻を突く。
べっ……ちょ……
何かが剥がれてバスタブに落ちる音がした。
震えながら見上げると、バスルームの白い壁にはべったりと黒い女のヒトガタが張り付いている。
「なに……これ……?」
どこか桜木舞子を連想させるヒトガタを見て、急速に心臓が鼓動を早める。
バクバクと自分の鼓動が響くバスルームの外から、カタ……と小さな音がした。
背後の物音に慌てて振り返ると、市松人形が残酷な笑みを浮かべている。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ……
嗤った人形の歯には、黒いヘドロがびっしりとこびりついていた。
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