ケース7 団地の立退き㊼


「処理って……でもそんなことしたら……先生が……」


「安心……しろ。お前が命綱を握っていれば……俺は死なん……」


 卜部はそれだけ言うと木に背中を預けて腰掛け、眼を閉じ静かに経文を唱え始めた。

 

 かなめは覚悟を決めて小林のもとへと走っていくと、半狂乱で暴れる魑魅様の脇をくぐり抜け、ミカが首を吊っている木の下で叫んだ。

 

「小林さん……!! あの日ちぎったブレスレットを!! それがミカちゃんをそこに縛り付けている元凶です……!!」

 

 それを聞いた小林は慌てて禍珠マガタマを取り出した。

 

 娘の形見として肌身離さず持っていた美しかったブレスレッドは、まるで細胞かどこか身体の組織のように、ぬめぬめと粘液に濡れながら脈打っている。

 

 癌細胞のような黒ずんだ肉の数珠に美しさの面影は欠片もなく、それは禍珠と呼ばれるに相応しい姿に変貌していた。

 

「なんなの……? これ……?」


 おぞけ立った小林が引きつった声を出す。


「それをこっちに!! 早く……!!」

 

 禍珠は、触れた指先から、小林の全身を侵食しようと根を伸ばす。


 その嫌悪感を振り払うように、小林は禍珠をかなめの方に向かって投げた。

 


 禍珠は湿った腐葉土の上に落ちると、ぐしゅ……と気味の悪い音を立てる。

 

 慌ててかなめが拾い上げると、その瞬間、脳裏に夥しい数の悲鳴や呻き声が響き、かなめは思わず手を放した。


 

「何……!? 今の……?」

 


 腐ったような泥水の中で、禍珠の表面はうぞうぞと波打っている。


 じっと見つめたかなめは、その正体に気が付いて血の気が引いた。

 


 人だ……

 

 沢山の人が中に閉じ込められている……

 


 ドロドロに溶かされた血の海の中で、苦痛に藻掻く人々が、じっとりとしたまなこで数珠の中からこちらを睨んでいる。

 


 触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない触れたくない……!!

 

 かなめの本能は全力で禍珠を拒絶する。

 

 しかしふと顔を上げた先に卜部の姿を見つけると、かなめは息を止め禍珠を鷲掴みにして駆け出した。

 

 苦しい……

 痛い……

 助けて……

 殺して……

 

 脳味噌を掻き混ぜるように鳴り響く声が、だんだんとその声色を変えていく。

 

 苦しめ……

 痛がれ……

 お前は独りだ……

 


 死ね……

 


 聞き覚えのある声に思わず禍珠に目をやると、父と母の歪んだ顔が数珠の内側に張り付いていた。

 



「逃げて!! かなめちゃん!!」



 立ち止まりそうになったかなめに、背後から小林の声が響く。 

 

 振り向くと、目を血走らせた魑魅様がこちらを見下ろし立っていた。


 

 弾かれたように駆け出すかなめを魑魅が追いかける。

 


「そのまま連れてこい……!!」

 

 卜部の声で前を見ると、手印を結んだ卜部が仁王立ちで待ち構えていた。

 

「荒神のたけき御霊の雄々しきは……由々しき調べ……揺ら温羅ゆらと……知識は式に……四季は死期へと移りたまわん……」


 卜部は片手の平を天に向け、もう片方の手の平をかなめに差し出した。 


 かなめはリレーのバトンのように、差し出された卜部の手に禍珠を渡す。


 すると卜部は天に向けていた手でかなめを掴み、自身の背後に引き入れた。


「邪道……

 

 卜部はそう言って禍珠を魑魅に放り投げた。

 

 魑魅に当たって弾けた禍珠から、赤黒い汁が飛散する。

  

 その呪詛の原液をもろに浴びた魑魅は、呆けたように立ち止まった。



 かなめが息を飲んで見いていると、魑魅の両目からぶくぶくと血のが吹き出してきた。

 

 だぶついた魑魅の瞼がぶるり……と震えた次の瞬間、眼球を突き破って無数の指が溢れてくる。

 

「ぎぃぃいいい……やぁああああああああああああああ……!!」

 

 魑魅は痛みに悲鳴をあげて地面の上を転げ回った。

 

 眼球から溢れる指をいくら引きちぎっても、次から次へと蛆のように指は溢れ出てくる。

 

 やがて指は眼球だけでは飽き足らず、魑魅の皮膚をも突き破って全身から溢れ出た。

 


 断末魔は徐々にか細くなっていき、ついに魑魅様は動かなくなる。

 

 かなめが目を見開いて横たわる魑魅を凝視していると、ネバネバした菌糸が魑魅の体表を覆い尽くしていった。


 やがてそれは毒々しい茸やカビに姿を変えて、魑魅の身体を吸い上げ跡形もなく溶けてしまう。

 

 

 腐葉土に残った黒いシミから立ち昇る不浄な臭いに、かなめは口を手で覆い卜部に目をやった。


「終わった……」 


 卜部はそう言って大きく溜め息をつくと、がくりと身体の力が抜けて、そのままかなめに寄りかかった。

 

「ちょ……ちょっと先生……!?」


 かなめは頬を紅く染めながら、そのまま卜部を抱きとめる。


 なんとなく卜部の背中をポンポンと叩いていたが、いつまで経っても卜部はそのまま動かない。


「先生……?」


 嫌な予感がしてかなめは小声で卜部を呼んだ。


 しかし卜部からは相変わらず何の反応もない。



「先生……!! 先生……!? しっかりしてください……!! 先生……!!」



 シトシトと霧雨が降り続く森に、かなめの悲痛な叫び声が何度も何度も木霊した。

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