第3話 操る者
仕立てのいいダブルのスーツに身を包んだ男は、手にしたタブレットを操作する。
テラスに通ずる窓からは潮の香りがしていた。
男は船の中で一番広いスイートルームのデスクに座っている。
外見は五十前後に見えるが、その実七十歳の誕生日を既に迎えていた。
軽く握った右の握りこぶしを鼻の下に当てて考えごとをしている。
人差し指の第二関節と第三関節の間の部分を無意識に唇で挟んでいた。
これは男の癖らしい。
ぎゅっと眉を寄せるとタブレットに意識を集中させる。
画面は横五列、縦三行に分割され、最下段右側の二つを除いて顔写真が表示されていた。
顔写真にはアルファベットのAからMまでの透かし文字が書かれている。
七つのマスがカラー表示され、六つがグレーアウトしていた。
カラー表示されている写真の一つ、Aの透かしが入ったものをタップする。
画面が切り替わってプロフィールが表示された。
一ノ瀬誠人。
都内の有名私立大学に通い、最大手サークルの幹事をしていた男だ。
四件の婦女暴行事件の疑いをかけられて裁判になっている。
親の金でもみ消そうとしていたが、そのうちの一件が暗礁に乗り上げていた。
映し出されている写真の顔立ちは悪くないが、見るからに軽薄そうな印象を受ける。
受験勉強はできるが頭は悪いのだろう。
事前の評価では頭脳、体力、精神力のいずれも高くない。
番狂わせで勝ち残りゲームを盛り上げてくれることを期待したいが、正直なところ、早々にリタイアするとしか思えなかった。
ダブルスーツを着た男はタブレットをタップすると元の画面に戻し、カラー表示されている参加者を次々と表示させていく。
運動能力に秀でたもの、知性は高いもの、どんな困難にも粘り強く取り組むタイプ。
それぞれに一長一短があるがいずれも、人生の敗残者という意味では一致していた。
脛に何らかの傷があり、不運も重なって人生の袋小路で立ち尽くしている。
そこへ男が一本の糸を垂らしたのだった。
別に人格者などは求めていない。
命がけのゲームに参加するのだ。モラルを司る部分が壊れている方がむしろ適性があると言える。
大事なのはゲームに真剣に取り組んでくれることだった。
そうでないと視聴しているお客様に楽しんでもらえない。
男は七人分のプロフィールを見終わった。
実は、全参加者のプロフィールはとっくに頭の中に入っている。
単にまだ半分も乗船していないことに対して苛立ちを抑えるために機械的に眺めているに過ぎない。
男は待たされることに慣れていなかった。
部屋の扉がノックされる。
「入れ」
男の力強い言葉に応じて、細身の男が入ってきた。
顔には白塗りの道化のマスクを着用している。
鼻の部分が丸く赤く塗られ、目の部分には黒い縦線が入っていた。
扉を閉めると入ってきた男はマスクを外す。
まだ二十半ばぐらい若い顔が姿を現した。比較的整った容貌だが目元に険がある。
「会長。クライアントの参加状況です。全世界の百名を超えるお客様から視聴の申込みがありました。八十パーセントの方が参加料を払い込み済みです。賞金額は既に充足しました」
「里見君。そんなことよりも第一ゲームの準備はできているのかね?」
「もちろんです。出航後公海に出たタイミングで、挑戦者へルールを説明して開始する手はずになっています。小道具も準備済みです」
「ならいい。それで、まだ乗船していない六名は?」
会長と呼ばれた男はデスクの表面を力強い指で叩く。
「まだ出航時間までは時間があります」
「しかし、殺人鬼を演じる予定の者が乗船してない。リアリティを追求するためにわざわざ招聘したんだ」
「その場合には誰か他の者を代役に……」
「まあ、確かに殺しも厭わなそうな参加者もいるが、現実に手を下すとなるとかなり荷が重いぞ。それに君も知っていると思うが、私は予定通りに進行しないのは気に入らん」
里見は会長と呼びかけた男の声に籠る圧を感じて僅かに身を引いた。
会長が日頃口にしている言葉を思い出す。
たとえ自分が神に背いても、神が自分に背くことは許さない。
成功者にありがちだが、世界は自分のために回っていると考えていることを思いだして表情を引き締める。
「大丈夫です。幸田宅へは制服警官の姿をしたスタッフに自宅を訪問させています。気が乗らなくてもやってきますよ。絞首台とゲーム。選択肢があるように見えて、その実、我々の指示通りにするしかないのですから」
「君の精神安定のためにもぜひともそうあって欲しいね。私は失望させられるのには慣れていないのだよ」
決して声を荒らげたりはしないが、会長の発言に里見は顔を強張らせた。
「ご期待は決して裏切りません」
会長は手を振って下がるように命じる。
里見は道化のマスクを被ると部屋を出ていった。
会長は再びタブレットに視線を落とす。
グレーアウトしているマスは二つ減っていた。
出て行った里見に思いをはせる。
それなりに優秀で勤勉だがまだまだ若いな。いや経験が足りていないと言うべきか。まだまだ色々なことに手を染める必要がある。
次いで九つに増えた挑戦者の顔写真を皮肉な表情で見やった。
誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように、十億円という金額に招き寄せられている人生の敗残者たち。
身の丈に合わない大金は人を幸せにするどころか不幸にするだけということが分かっているのだろうか?
その教訓を学ぶことができる者は一人だけ。
それ以外の挑戦者は自らが提供しうる唯一のチップである命をテーブルに乗せてゲームに参加し、そして死ぬ。
挑戦者連中はまだそのことを知らない。
ゲームの内容が明かされるのは出航後であり、もう彼らは引き返すことができる地点を過ぎてしまっている。
まあ、もともと人生が半ば終わったような者たちばかりだ。
そういう人間の方が面白い。
どのような狂態を見せてくれるか楽しみだ。
他人の人生を支配し蹂躙する。
これ以上の楽しみは無いだろう。
あの悪趣味な顧客連中が誰が生き残るかのレースに大金を投じるお陰で、運営資金以上の金が入ってくるなどというのは些細なことだ。
しかし、このゲームを視聴するためだけに二十万ドルを払う人間がこれだけも居るとは世も末だな。
まあ、先方からすれば、このゲームを主催している方が頭のネジがぶっ飛んでいるということなのだろうがね。
会長は頬を歪ませて苦笑した。
さて、主催者としてそろそろ観客に挨拶をせねばな。
デスクの引き出しから道化のマスクを取り出して装着すると、部屋の片隅にセットされた演台に歩み寄る。
演台のスイッチを操作するとカメラに向かって流ちょうな英語で話し始めた。
「Welcome everyone」
もちろんマイクに細工がしてあって、顧客に聞こえる声を録音されたところで声紋は一致しないように加工されることになっている。
手元の別のスイッチを押した。
会長は背後のスクリーンに投影されたものを示しながら、最初のゲームの内容と視聴にあたっての注意事項を説明する。
二十分ほどのスピーチを終えると約二十四時間後のゲーム開始を告げて話を終えた。
その僅か数秒後、演台から離れたところにあるデスクの上のタブレットがピコンという音をさせ、画面全体が明滅する。
その合図は挑戦者が全員揃ったことを示していた。
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