4. 八月旧盆、チェイサーグラス(3)

(なんだよ?せっかくオレは増田と会えたのに。二人っきりで話そうって言ってくれたのに……全部やり直すんだよ)

 樹は、自分と増田の間を阻む背中を睨んだ。

「何だよ、邪魔すんな。お前、誰だよ」

 さっきまで樹に微笑みかけてくれていた男が、声を荒げる。

(ほら、増田が怒ってるじゃん。怒らせないでくれよ。こんなチャンス、二度とないんだ……オレは、ずっとずっと……あの苦痛に満ちた高校生活を終わらせたいんだ……いや、オレは今もすごく苦しいんだ。裏切られる期待をしたくないんだ)

「この人の知り合いだよ。完全に酔っぱらってるじゃん。やめろよ」

 樹は、新しく現れた声の主が何かを止めようとしてる雰囲気を口調から感じた。

 「はあ?だいじょうぶだよ、なあ?こいつは、オレのことを愛しい誰かと間違って夢見てるんだ。今夜一晩、夢を見させてやろうっていうのに、邪魔すんなよ」

 「そんなこと分かってて、オレの知り合いを行かせたりできるかよ」

 樹は朦朧とする頭でも、激しく言い争ってるのは分かっていた。

 誰かがオレをかばってる?オレはいいんだよ、オレは……どうせ……オレの人生は……

「なんだよ、でけーガタイしてるからって、イキりやがって。オマエのもんなら、あんなところで誘うようにベロベロになるまで飲ませてんじゃねーよ。ちゃんと捕まえとけ」

 怒鳴って遠ざかる男の声が、樹の頭にぐわんぐわんと響く。

 「ああ……増田が行っちゃうじゃん……誰だよ…邪魔するの……」

 樹は、自分を阻んだ大きな背中に抗議のゲンコツをいくつか叩いた。一生懸命に叩いているのに、ぽこぽこと軽い音しかしない。

 泣けてくる。おれは暗黒の高校時代を振り切れるはずだったのに。そうしたら、あいつにだってもっと優しく振舞えるのに。ちゃんと先生らしく、最初から最後まで「いい先生」として振舞えるのに。

 その背中の持ち主が困ったように、振り返って自分の手を、優しく掴む。優しくておずおずとした手。でも大きくて熱い。

 頬に熱いものが流れるのを感じる。そこに優しい手が触れた。

「なんだよ…なんで、オレの邪魔するんだよ……オレの人生はなんでこんなゴミみたいななんだよ…」

 世界は夜なのに、そこら中に燈っているネオンと振り出した小雨が、きらきらと光っている。闇のなかで光っている。

 樹の頬は、再び温かい手で包まれた。優しく頬を伝うものを拭ってくれる。

 「泣かないで、先生」

 

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