第223話 魔族との戦いが始まる

 王国歴165年2月8日の朝、アリカタがヤクモにつくと、宿屋は奇妙な静けさに包まれていた。

 宿の中に警戒して入ると、宿は通常通り営業していた。

 調査団のメンバーも食堂にいて、朝食が終わり、コーヒーを楽しんでいるのだった。

 

「確か、アリカタ殿でしたか? お疲れ様です」


 リーダーが笑顔でアリカタに話しかけ、椅子をすすめてくる。


「申し訳ない。どうやら私の早とちりだったようです。宿の主人にも悪いことをしてしまいました」


 アリカタは椅子に座ろうともせず、食堂の入り口で立ち止まったまま、周囲を警戒する。

 

「宿の主人はどうした?」


「先ほど、買い物に出かけましたよ」


 アリカタは懐からジュズを取り出し、一瞬だけ悲しそうな表情をする。

 次の瞬間、ジュズを頭の上に掲げ、『喝!』と大音声を発する。 

 そして、胸から卵ほどの灰色の紙を一枚だけ掴み、左の人差し指と中指の間に挟んで、口の前に移す。


呪禁師じゅごんし、なめんなよ! 急急如律令呪符退呪呪符を用いて呪いを直ちに退けよ


 呪符がアリカタの前で燃えると、その炎が一瞬で部屋中に広がり、すぐ消える。

 食堂にいた調査団の4名と宿の奥さんは、頭をがくんと前に倒すと、体中の力が抜けたように、その場所で動かなくなってしまう。


 けれども、すぐに奥さんが大きなお腹を抱えて椅子から立ち上がった。


「アリカタさんでしたっけ? みんなに何をしたんですか?」


 その奥さんの左手に指輪がつけられているのを見て、アリカタは語気を荒げる。


「奥さん。その指輪は旦那さんからもらったのか?」


「ええ、彼が結婚の約束をしてくれたときに、もらったんです」


 うれしそうに眺める奥さんを、アリカタは絶望の目で眺める。


「でも、まだ結婚式はしていない。……ちがうか?」


「ええ、子どもが生まれたときにしようって」


 行儀悪くテーブルの上に上がると、アリカタはどすんと音を立てて胡座あぐらをかく。


「せめて、安らかに。ओं अमोघ वैरोचन महामुद्रा不空なる御方よ、大日如来よ मणि पद्म偉大なる印を有する御方よ ज्वाल प्रवर्त्तय हूं宝珠よ蓮華よ、光明を放ち給え


 アリカタは光明真言こうみょうしんごんを力の限り唱え始める。 

 光明真言は、過去の一切の罪障ざいしょう除滅じょめつし、ごうの報いによる病人に対し、宿業しゅくごうと病障を除滅する。

 光明真言はアリカタの力を飛躍的に高めるが、反面、生気が使われてしまう。


 奥さんのお腹が動き始め、奥さん自身も苦しみ始める。

 ひたすら真言を唱え、1時間が経過したとき、ようやく奥さんの顔に安らぎが訪れる。


 その瞬間、大きな破壊音を立てて窓ガラスを突き破り、宿の主人が食堂に入ってくる。

 背中から黒い翼が生えていて、どう見ても人間には見えない。

 奥さんに近づき、奥さんごと外に運ぼうとする。


急急如律令呪符禁動呪符を用いて動きを直ちに禁止せよ

 

 呪符が燃え、宿の主人の動きが止まる。 


「今だ! お前ら、香をたけ!」


 アリカタの声で隠れていたサムライ2人が部屋の4隅に香を置き、火をつける。

 宿の主人は、口を押さえて苦しみ始める。


「もう人間のフリをする必要はないぞ! 急急如律令呪符禁擬呪符を用いて擬態を直ちに禁止せよ


 その瞬間、主人の顔から皮がするすると剥がれていき、真っ赤な目をしたトカゲのような顔が現れる。

 目をよく見ると、魔族の象徴でもある瞳孔が縦に割れている。

 皮膚は紫の鱗で覆われ、口からは舌がちろちろと動いているのが見える。


「お前ら、これから毎日、封魔香を切らさずに焚くんだ。それと、俺の近くに水と食べ物を用意しておいてくれ!」


「分かりました」


 そう言うと、再び光明真言を唱え、急急如律令を発し続ける。


「俺はお前には負けない! 負けるわけにはいかない!!」


 ジュズを鳴らし、さらに大音声になるアリカタだった。


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 「急急如律令」は(きゅうきゅうにょりつりょう)と読み、初めは行政文だったようです。

 「早くそれをやってよね」的な感じです。

 それが、いつの間にか呪文になってしまったとのことでした。

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