第2話 OLの話(1)
目を覚ますと、やけに柔らかなベッドに寝かされていることに気がついた。
「んぁ……」
なんでこんなところで眠っているのだろうか、とか自殺したはずの私がなぜ生きているのだろうかとか、疑問は尽きない。
黒い天井が見える。
「知らない天井だ……」
「あ、澪おねーさん起きた?」
若々しい声が聞こえ、私は飛び起きる。聞き馴染みのない声だから、余計に焦る。
見知らぬ部屋、どこかのホテルみたいだ。みたいっていうか、これラブホテルでは?
瞬間、記憶が蘇る。
「っ、あっあっと、えっと」
「はい、お水。とりあえず落ち着いて」
ペットボトルを受け取る。目線を上げて、相手の顔を見る。
「あ、ありがとう」
エリナは女子高生らしい、有り体に言ってしまえば制服を着ていた。昨夜から着替えていないのかどうかはわからない。
受け取ったペットボトルを開封して飲む。ぬるい水が喉を通る。
「……これからどうしよう」
女子高生と一夜を共にした、という事が誰かにバレたら、社会的死は免れまい。
「おねーさんさ、少しはスッキリした?」
「え?」
「昨日はすごく辛そうだったけど、今日はなんか違うからさ」
言われてみれば、今は死のうとか全然思っていない。昨日はあんなにも死を願っていたのに。
「確かに、ちょっとだけスッキリしてるかも」
今まで自身の内に溜まっていた澱みを、誰かに吐き出したからだろうか。
「ならよかった」
そう言ってにっこりと笑うエリナに、何か──そう、全てを見透かされたような感覚がした。
「エリナちゃん、その……最初からそのつもりで?」
「ううん、最初は落ち着かせたら抱かれようかなって思っていたよ。誘いに乗ってきたって事はそういう事だと思ってたし。でもさ、すごくしんどそうだったから、寝かしつけちゃった」
そこまでわかりやすく疲弊していたのか。いや、自殺しようとしていたところを見られたのだ、少し考えれば理解できるか。
しかし、なおさら恥ずかしい。相手は年下なのに。年下に慰められるなんて。
けど、おかげで楽になれたのもまた事実。
「じゃあシャワー浴びて出よ!」
と言われて、私はベッドから降りる。エリナはすでに制服を脱ぎ始めている。
「ちょっと、エリナちゃん」
慌てて目を逸らす。昨日母に甘えるようにしてしまった相手の裸を見るのがどうにも恥ずかしかったから。
エリナは私の顔を覗き込み、意地悪げに笑顔を浮かべる。
「なに、気にするの? ウブだね、澪おねーさん」
「む……別に気にしてない」
「へぇ……」
意地悪げな笑みはそのままに、彼女は私の着ていた服に手を回す。スーツの上着に手を掛け、脱がそうとする。
……スーツ?
「エリナちゃん、一個訊いてもいい?」
「なに?」
脱がされながら、私は一つ確認する。
「私、もしかしてスーツのまま寝てた?」
「はぁ……」
通勤電車を降りて、私はため息を吐く。ため息の理由は、スーツだ。私の質問にエリナは、
『うん、スーツのまま寝てた』
と答えたのだ。つまり、端的に言えばシワになることが嫌なのだ。クリーニングに出さないといけないのが面倒くさい。
「……ま、仕方がないか」
切り替えるという意図もあり、私は口に出す。
街は賑わっている。どれだけの人がいるのかはわからないけれど、今この瞬間の時を共有している。けれども互いに干渉はせず、他人のままだ。
ある種それが歪と言えた。時空を共にしているのに、視界に収めているのに、思考には留めていない。
それは、私も同じだ。思考に留めず、互いの人生に干渉しない。どこまでいっても他人でしかない。
ポケットに手を入れる。カサリ、と一枚のメモ用紙が手に触れる。それを手に取る。
『これ、私の電話番号とチャットID。会いたくなったら連絡して』
と言われてエリナに渡されたのだ。ただの他人から、特殊な関係になった女子高生。
ちなみにメモは三万円と引き換えだった。
その時の彼女の目が言外に「無理はするな」と言っている気がした。
エリナの事に想いを馳せる。
「──っ」
彼女の笑顔を思い出す。それがたとえ私に対する芝居だとしても、あまりにも可愛らしかった。
あの笑顔で、どれだけの人と肉体関係を持ったのだろうか。
「そんなの、私には関係ない」
体を売る、という行為の善悪はさておき、それを選んだのは彼女だ。それを買う大人が存在していて、私もその一人になってしまったというだけの話。
心の中にモヤモヤが残る。なぜだろうか。
「わからないや……」
お金で女の子を買ったことへの罪悪感? それともそれに対する高揚感?
どちらにせよ、褒められた行為ではない。
そう思いながら、職場のある雑居ビルに入った。
「おい、雨宮!」
昼下がり、課長に呼びつけられる。いつもの事だ。
「おまえ、書類適当に作ってんじゃねーぞ! 読めねーんだよ!」
課長がこちらに投げつけてくる書類からは、コーヒーの臭いがした。私の顔に当たって、地面に落ちる。
私は心を殺す。この男は私への当たりが異常に強い。まぁ、ストレス発散の一角なのだろう。適当な難癖をつけて怒鳴りつけてくるのだ。
この書類だってそうだ。紙にコーヒーを溢したのはお前じゃないか。
冗談じゃない。なんで私がそんなふうに扱われなければならないのかと最初は思っていたけど、今では心を殺すようになっていた。
「聞いているのか! えぇ⁉︎」
「はい、申し訳ございません」
「だいたいお前は仕事が遅いんだよ。何してるんだよ!」
あなたの理不尽なお叱りで毎日数時間取られていますが。私があなたのやり残した仕事もこなしてるんですよ。
もちろんそんな事は言えるわけがない。言える度胸があるんなら、今頃この会社を辞めている。
「はい、申し訳ございません。精進します」
「全く……いいか、俺が若い頃はなぁ──」
「かちょー、ちょっと良いですか?」
背後から課長に声をかけるものがいる。私の後輩、大橋かな子だ。
「おお、かな子くん! どうしたんだい?」
「はい、ここなんですが」
大橋さんは、いわば可愛い系の子で、課長のお気に入りだ。短く切られた黒髪と濃いめの化粧で、大きい胸。男性社員からの人気ランキングでは上位に位置する。
別にそれは良い。問題は、課長の態度に明らかな差があるというか、言ってしまえば課長がデレデレしすぎているというか。五十になろうとしている、ハゲ散らかしたオッサンが何をやっているんだって感じ。
「あー、お前はもう戻って良いから」
手でしっしっと追い払われる。態度にムッとするより先に、今日は早々に解放されたなと思う。
席に戻ろうとすると、大橋さんと目が合った。パッチリとした目の奥で、何かの意図を感じた。
というか、度胸があるな。あの状態の課長に話しかけるなんて。
私は自分のスペースに戻る。ディスプレイとパソコンと山積みの書類があるスペースだ。
はぁ、とため息が出る。やっぱりしんどい。天井を見上げて、それから画面に向かう。案件は溜まりに溜まっているから、急いでやらないと。
無意識に、自分の頭を撫でていた。
「昨日の、気持ちよかったなぁ」
ふと、そんな言葉が漏れていた。あの感覚を思い出して、思い出に浸る。
一晩三万円にホテル代。概ね三万五千円。高いけど、休日は寝て過ごすだけの私の貯金なら多少は大丈夫。
『今夜、会える?』
チャットアプリでエリナにチャットを飛ばす。すぐに、
『会えるよ。仕事終わり何時?』
返事が来て、心臓がドクンと高鳴った。
『だいたい十時ごろ』
『わかった。昨日の橋の上で待ってるから、終わったら来て』
『わかった。楽しみにしてる』
そう返事をして、パソコンに向かう。今日は不思議と、仕事が頑張れそうな気がした。
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