SS『神様の箱庭』

水野スイ

Before the train comes.


胸のときめきとはなんだろう。

勝手に体が熱くなって、ああ、と手で顔を覆いつくすことだろうか。

なら、ここ数日の出来事はそう言えるのかもしれない。


好きになってはいけない人を、好きになってしまいました。


こう書けば、どことなく平凡な私の気持ちも、価値あるものになるだろう。

じゃあ、すこし、私の話を聞いてほしい。



きっかけは、大学生になって始めた、アルバイト先の先輩に出会ったことだった。

バイト初日にミスをしてしまった私を、かばってくれたあの人は。

私が今まで嫌悪していた人間だった。


茶髪に、片耳ピアスに、女子受けがよさそうなルックス。

人生とは?と聞かれれば、分からないけど生きてりゃいいよ、と答えながら女の子を抱いていそう。



「チャラそうに見えるでしょ」

バイト終わりに、うるさいバイクの音を聞きながら、並んで歩いていた時。あの人がそう言った。私は、愛想笑いをした。

「これでもヤったことないだよ」

大学生になったばかりの人間に、一体何を言っているんだと思う。それでも、そうですか、とまた笑った。あの人は真顔で私を見つめてきた。気持ち悪かった。



薄暗い駅のホームで、2分後に来る電車を待つ。

すると、隣にいたあの人は、右ポケットからライターを出すと、私に持ってて、と渡してきた。

私はカチッと、彼に火を渡してあげた。

おそらく煙草をふかすのだろう。

父がかなりの喫煙者だから、それくらい知っている。

「気が利くね」

そういって、あの人は私の手を握りはじめて、煙草を持たせた。

私はいやだな、と思って煙草を無言で返すと、ぽつりとあの人が何かを呟いた

「かわいい」


電車が来て、周りの音がかき消されたけれど、おそらくあの人はそう言った。

その拍子に、煙草がぽたっと地面に落ちて、あの人がそれを足で踏んだ。


私が唖然としているのを横切って、あの人は電車に乗った。

気づけば、電車のドアは閉まっていた。



電車が通り過ぎた後、何かこつ然とした空気が流れていた。

何かをさらわれた気分がした。何かを持っていかれ、そればかり考える。

それ以外のことなど、まるでどうでもよくなるのだ。



「あ...」

手に冷たい感覚がして、

みてみればあの人が置いていったライターが握りしめられていた。

よくみると、丁寧に名前と、電話番号が彫られている。

これが彼の手口なのだとは思うが、引っかかってしまったことに腹が立つ。


「....」

最寄り駅から降りた後、家までの帰路で、投げ捨ててしまおうと考えた。

右手を振りかざすが、そんな事どうでもよくなって、力が入らない。


しかしこのライターがあるということは、これまでも多くの人間が、これを握りしめてきたのだろうか。

「...」

どうも、去り際に彼が言ったあの言葉が耳から離れない。

このうぶな気持ちも、火照る体も、ぜんぶ、ぜんぶ。

本当に嫌で仕方がない。




だったら、私が終わらせてしまおうか。

私は馬鹿なのだ。


プラットホームに立って、黄色い線の外側に立つ。

右手を振り上げて、ライターをぎゅっと握って。

嫌で仕方が無いから。





投げ捨ててしまおう。

電車が、その電車が、来てしまう前に。












翌日にバイト先にどういう気持ちでいけばいいのか、正直分からなかった。


あの人は居たが、昨日のことなど何も無かったかのように私に接し始めた。

ライターはどうしたの?なんてことは、言わないのだろう。

「おつかれさま」


一言声をかけられ、会釈をした。

私は彼が、店を出ていくのをじっと見ていた。

ドアが開いて、まるで、まるで昨日の電車の時のように。


「あの」

嫌だから、声をかけてみた。

しかし、あの人は店を出ていった。


黙って電車に乗って、私がついてくるかどうか見極めているのだ。


心底嫌だと思った。そんなせいかくのやつは。




適当にカバンを持って、ストーカーのように後をつけていく。

ホームに急いで降りると、あの人が居た。


「忘れ物です」

ライターを差し出すと、あの人はまた真顔で私を見つめて、黙って電車に乗った。

ドアが閉まって、あの人は遠くへ行った。





次のライターの持ち主は、一体誰なんだろう。

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