2023/7/21 迷走・遁走・爆走

 なんか、世代だから(※本当に世代だから)この日付の並びを見ていると、センター英語の問題を思い出してしまう。私は問題に夢中で何も気づかなかったのだけど、後ほどその番号が頭から離れなかった友人たちに解説されて度肝を抜かれたのを覚えている、故意だろこんなの。ちなみに現代文は「スピンアトップ、スピンアトップ、スピンスピンスピン」の年でもあった。私は夢中だったので特に気にならなかったが。

 これで歳がばれる。


 何も書く気が起きない。というか、単純に疲労を蓄えてしまったのだと思う。無理が利かなくなってきた。今はただ出力する能力がないことがわかるので、YouTubeで「ぼくらの」のMADなどを見て泣いていた。今は「鳥の詩」を聞いている。


 考えることが多すぎて、考えるのをやめてしまったみたいだ。現実問題、創作の悩み、しっちゃかめっちゃかに絡まりあって、そんでもって肉体的疲労まできたから、完全な思考停止と行動不能が合わさって目も当てられない。それでも日記なんぞ書いているのは、文章を使って身を立ててやりたいぞという意志表示であって、私はこんなていたらくでも書くし、読むぞというファイティング・ポーズだ。自分に言い聞かせているし、周りにもそう言ってる。こいつ、何かやってんなと思われたい。こんなんだけど。


「ぼくらの」のMADを見ながら、はるか昔に通しで見たアニメのことを思い返して、一番えぐかったのはカコ・チズ回かダイチ回か、と考えていたけどどう考えてもキリエ回が飛びぬけてえぐかった気がする、他の子に比べてキリエは戦うことにためらいが無くて、その先に何が待ち構えていようと迷いがなかった。だからこそ13歳の少年として見たとき、あんまりにもえぐ……と思ってしまう。この歳のおばちゃんになると若い子が命を削って戦う描写が心に来る。


「ぼくらの」は、ジアースというマシンに乗り、地球の存亡をかけて戦う少年少女たちの群像劇なのだが、マシンのパイロットになったら最後、そのまま。マシンの動力はパイロットの生命力なのである……という設定だ。そのジアースに搭乗するのが十五人の少年少女たち、全員十三歳……。

 人生これから、むしろ始まったばっかり、そんな彼らが予定された死を前に、どのように生きて散っていくかを描いた作品、こんな不条理ふじょうりあるかよ、と思いつつも名作として語られ続ける限り、そして私が「ぼくらの」を見返して思い出す限り、私は物語や人の人生における不条理性を否定できないなと思う。

 

 現実、すべてのつじつまが合うことなんかめったにないのだ。伏線は投げっぱなしだし、立ったフラグは折れない。そこに居合わせてしまったからパイロットに選ばれてしまった、という十五人のパイロットたちみたいに。偶然が偶然を呼んで必然に見えることはあっても。

 そんなことを考える頭でいつもは物語を考えている。矛盾しそう。

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