第9話 正念場

 玉座にいる国王ラキストニア三世は、恭しく跪く二人の男女を気怠けだるそうに眺めていた。男女というのはむろんサブリナとアドニスの事である。


 謁見の間に居るのは近衛兵と侍従たち、それに数名の上級貴族だ。しかし彼らは二人の謁見の為にそこに居るわけではなく、むしろ彼らの仕事の合間に二人の謁見が行われているという具合であった。


「その方がサブリナか?」


「はい。レイモンド伯爵が長女、サブリナ・レイモンドに御座います」


 サブリナにとってはずいぶん昔にデビュタントで国王に謁見して以来の拝謁だったが、その気怠そうな態度が昔のままだった事が妙に可笑しくて口元が緩みそうになる。


 しかし今は可笑しがっている場合ではない。国王が自分をお召しになった目的が分からないままなのだ、緊張感を持って臨むべきだと気を引き締めた。


「ふむ。聞けばその方、自ら計画したアドニスとの婚約破棄を夜会にて実行したそうであるが、衆目に晒されながら恥辱を受ける事に恐れはなかったのか?」


「はい。御座いませんでした」


「何ゆえじゃ?」


「畏れながら、興味本意の好奇の目を恐れる理由が見当たりませぬ」


 すると国王の顔から僅かに気怠さが消え、その眉をピクリと動かした。


「ではその方は何なら恐れる?」


「はい。この世から美しきものが失くなることを恐れまする」


 サブリナはそんな事を自分に聞く為にわざわざお召しになられたのかと、少々拍子抜けしてしまう。

 ところが国王にとっては意味があったものらしく、機嫌良さげな声がサブリナへと返ってきた。


「ほほ。良い答えじゃな」


 何で今のが良い答え? と、国王の言動を訝しく思うサブリナは、まったく高貴な御方というものは自分のような凡人には計り知れないと肩を竦めた。

 もちろん心の中だけで。


 直ぐに国王は元の気怠い表情に戻ると、いつもの抑揚のない声でサブリナに語りかけたようだ。


「その方らの計画とやらは、それなりには面白いものであった。アドニスの覚悟も悪くはなかったのだが、如何せんちと役不足であったようじゃの」


 アドニスはその国王の一言が深く胸に刺さったのだろう。顔を歪めてさらに深く低頭したその姿には、彼の無念が滲みでている。


「そこで計画立案者のサブリナよ、もう一度だけお前に余と取引をする機会を与えてやろう。それで此度こたびは満足いたせ」


 前触れもなく申し渡してきた国王のその言葉が、サブリナとアドニス両名の耳に突然鳴った雷のようにして轟いた。


(あっ!──)


 二人が思わず声をだして驚きそうになったのも無理はない。ほとんど諦めていた希望が復活したのである。


 これが単なる国王の気紛れなのか、それとも国王なりの慈悲なのかは分からない。

 しかしどちらにしろ国王が与えてくれたこの最期の機会が、サブリナとアドニスにとっての正念場であるのは間違いないのだ。


 僅かに繋がったこの一縷の望みにすべてを賭けようと、サブリナは華奢なその手に力を込めた。


(よかった、自棄にならなくて!)


 もしかしたらもう一度取引の機会があるかもと、その可能性を捨てなかった自分たちをサブリナは密かに褒める。


「陛下の御厚情に心よりの感謝を申し上げ、謹んでお取引を致したく存じます」


「よい。必死に足掻け」


 国王はサブリナの言葉に被せる様に手を払うと、取引の開始を促した。

 サブリナもまた臆する様子も見せずに、あらかじめ侍従の一人に預けていた数冊の書物を取りに歩く。


 その間アドニスはおもてを伏せたまま瞑目し、心の内で祈りにも似た応援をサブリナへと送り続けた。


(サブリナ、頑張れ……!)


 侍従から書物を受け取り御前へと戻ったサブリナは、国王を真っ直ぐに見るとその書物を差し出して再び跪く。


「畏れながら陛下。先のアドニス様との取引におかれましては、陛下は我らの提示した内容では取引の材料には足らぬと思召おぼしめされたと伺っております。ゆえに足らぬ分を補うものを、いえ、それ以上の材料を持って参上仕りまして御座います」


「ふむ。用意がいいの。で、それはその手に持つ本の事か?」


「はい。仰せの通りで御座います。まずは御覧頂きたく存じまする」


 侍従は再度サブリナから書物を受け取ると、今度はそれを国王へと渡した。

 ペラペラとページをめくる国王の態度からは、書物に興味を持つ様子は窺えない。二冊三冊とその書物を気怠げに眺めているだけだ。


 なんとも心もとない国王の反応であるにもかかわらず、何故か自信満々なサブリナは取引の成功を信じて疑わない。

 もし許されるのなら国王に「どうよ!」と自慢しそうな勢いなのである。


 それに引き換えアドニスは、額から脂汗を垂らしながらガクガクと震えていた。


(や、やっぱり無茶だったんだよサブリナ。あんな僕の趣味の研究なんか、陛下が興味をお持ちになるワケがなかったんだ。君は僕を過大評価し過ぎていたんだよ……)


 アドニスが言ったようにサブリナが国王との取引に使った新たな材料とは、アドニスが今まで趣味でしてきた研究を纏めた論文である。

 それはどの様な研究かというと、主には農業で使う堆肥についてだ。


 王国では家畜の糞尿から作る堆肥で作物を育てるのが主流であったが、アドニスは人間の糞尿から作る堆肥に着目して、その有用性を研究してきた。


 その研究の過程でアドニスは、さらに社会基盤の整備にも活用出来ないかと考える。糞尿による都市衛生の悪化が問題視されている昨今、糞尿売買を経済に組み込む事での解決を発案したのだ。


 糞尿に価値が生まれれば捨てる者も居なくなり、その管理がしやすくなるだろう。結果都市の衛生は保たれ、不衛生が原因での疫病の数も減少しよう。

 さらに糞尿管理を修道会などに任せる事により、その売買収益を貧しい者たちの福祉に利用する事も可能かもしれない。


 つまりアドニスにより書かれた論文は人間の糞尿を活用した農業の発展はもちろん、社会基盤の整備をも具体的な分析と課題を交えて考察したものを纏めたものだった。


 しかも王国の行政と関連させた施策としての提案もされており、当時の水準では画期的という称賛を得て然るべき内容がその論文には詰まっている。


「アドニスよ、これらの論文はお前が書いたもので相違ないか?」


 国王は手にしている論文を纏めた書物をパタンと閉じた。論文に目を通していた時間は決して長いものではなかったろう。

 しかし国王の表情からは気怠さが消え、代わりに厳しさが現れている。つまり論文を読んで何かしらの感情の変化があったという事だ。


「は、はい。相違御座いません。御目汚し大変申し訳なく存じます。全ての責任はどうかこの私めに……!」


 アドニスはその国王の変化を不快感と受け取ったようである。懲りずにまた価値のないものを取引の材料に持ってきた事への叱責は、もはや避けられないと覚悟した。


「はて、何の責任かよく分からぬが。まあよい。サブリナよ、取引材料はこの書物のみでよいのであるか?」


 途端、サブリナは我が意を得たりとばかりに胸を張ってこう答えたのである。


「畏れながら陛下、それは取引材料の一部に過ぎませぬ。私が陛下へご提示する取引材料とは、ここに居られるアドニス様そのもの。の者の頭脳こそが取引材料だとご了承頂きたく存じます!」


 すると謁見の間には「ええっ!?」という、場違いなアドニスの小さな悲鳴がひとつ。

 もちろんその後に(聞いてないよサブリナっ!)と狼狽したアドニスの叫び声が、彼の胸中だけで木霊の様に繰り返されていたのは言うまでもなかった。

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