12話ー③ 聖女と聖騎士

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 夢にしては綺麗すぎる、と。

 宙を舞う飛沫に目を奪われながら、アルセアは茫然としていた。


 変だ、と思った。終わってしまった曲の、知らない続きが始まった気分。起こるべきことが全て起こったはずなのに、自分の知らないところで新しい何かが何かが進んでいた。



 空から落ちるのを待つはずの雨粒が、雲から離れて地面に落ちない。


 光に向かっていくところを、きっとアルセアは、初めて見た。



 もしかしたらそのとき、アルセアの頭の中には、信じられない量の思考があったのかもしれない。


 その光景を目にしても、あるいは塔の中に〈影獣〉が入り込んでくるのを見ても、決して彼女はその手を緩めていなかったから。非常に高度な魔法操作を、耐えがたいほどの苦痛の中でひとつの間違いもなく進めていたから。過剰な集中の下でこの状況を、これから自分がすべきことを判断したのかもしれない。


 けれど、それはほとんど意識にも上ってこないことで。



「――ぁ、」



 手を伸ばした理由は、きっと。


 ただその人に、触れたかったからだ。




11



 覚悟の上で、シグリオはここまで来ていた。

 最初の塔に足を踏み入れたとき、わかっていたのだ。自分には光の魔力の適性は一切ないと。


 ここまで上ってくることができたのは、〈影獣〉を魔力の盾にして凌いでいたからだ。けれどそのままでいるわけにはいかない。彼女を〈影獣〉から守るためには、必ず圧縮された光の魔力空間にその身を晒さなければならない。


 たった一秒だって、骨が圧し折れるような思いだった。長くは保たない、と弱音を吐きそうになった自分を叱咤する。あれから一年。ただ寝ていたわけではない。自分は強くなった。だから何としても、


 何としても、と。

 彼女が伸ばした手を、掴んだ瞬間のことだった。


「――――っ!」

 身体が、軽くなった。


 全く塔の外にいたのと同じというわけではない。けれど、先ほどまでとは比べ物にならない。空いた左の手が軋みを上げながら、それでも向かい来る〈影獣〉に向かって剣を振る。


「――〈水牢〉!」

 海を貫く陽の光のように、鮮やかに。


〈影獣〉を牽制する水の魔法を発しながら、いくつもの憶測と判断がシグリオの脳裏に閃く。その中から最も優先すべき言葉を、まず彼は、


「アルセア様! この光の魔力濃度なら、あなたも無事で〈光継式〉を終えられますか!?」

「――――」


 儀式の間にかかった負荷があまりに過剰だったらしい。アルセアの声は掠れてしまって、言葉にならない。かほっ、と咳き込む。それでも彼女は顔を上げて、


「っ、」

 こくり、と頷く。


 それだけでシグリオは、信じられないほど救われた気持ちになった。


「完遂までは必ず私がお支えします! 魔法操作に集中してください!」


 離そうとした手をアルセアが強く握ったから、それでわかった。今、自分の身体が軽くなっているのは彼女に同調しているからなのだと。誰がそうしているのかわからない。アルセアが助けてくれているのかもしれない。ここまでの水の魔法を発動した自分が、過集中を起こして彼女の魔力波長に無意識の呼応を起こしているのかもしれない。あるいは前言を翻して、塔の外からメィリスが〈パラ・センス〉を用いてサポートしてくれているのかもしれない。


 けれど何をすべきかは、あまりにわかり切ったことだった。


 この手をずっと、離さない。


 圧縮された光の魔力は、どんどんと輝きを増している。まだ〈光玉・エルニマ〉まで届いていないというのに、塔の中はもはや始まりのあの暗闇のことなど思い出せないほどに輝いている。


 それに応じるように、あるいは歯向かうように、次々に〈影獣〉は水の中から這い出てくる。鋭い爪、牙。生命を損なおうとするあらゆる害意を、重みを増していく剣で、苦しくなる息の中でシグリオは払い除け続ける。鬼気迫る剣の冴え。水面にきらめく光。これより鋭く刃が閃くことは生涯あるまい、とすら思う。


『――聞こえていますか。不測の事態です』

 そのとき、声が届いた。


「聞こえています!」

『作戦が上手く行きすぎました。塔の上部に光の魔力が急速に集中しています。それによって巨影が、』


 どぉん、と塔の揺れた音で、ほんの一瞬メィリスの言葉がかき消される。ばらばらと落ちる礫のひとつにも当たらないようにと、シグリオはアルセアを強く抱き寄せた。


「――――っ」

「どの程度保ちそうですか!」

『完全に顕現するまであと一分三十秒。そうなっては大公爵と辺境伯でも真っ向から抑え込むのは不可能です』

「儀式の完遂までは!」

『七秒程度、巨影の顕現から遅れます』


 同じ声は、アルセアにも聞こえているらしい。自分を見上げる彼女が全く迷いなく頷いたのを見て、シグリオはメィリスの見立てが間違っていないことを確かめる。


 七秒。

 結局は、それだけの話なのだとしたら。


「真っ向から抑え込む必要はありませ、ん!」

 剣を振りながら、シグリオは伝える。


「巨影が完全に顕現したら、この場所に攻撃を通して構いません! 私の方で何とかします!」

『大公爵はやる気に満ち溢れていますが』

「では、攻撃をさらに上部に誘導してください! こちらに直撃しないように、できるだけ塔の破損個所が少なくなるように!」


 わかりました、と返答は短い。

 腕の中のアルセアに、シグリオはできる限りのことを説明したかった。最後の七秒に自分たちふたりがどういう動きをするのかを伝えて、彼女の不安を和らげたいと思った。


 けれど、やはり彼女は。

 こちらの目を見れば、何も言わないままで頷いてくれたから。


「そのまま、最後まで。あなたが選んだ騎士を信じてください」


 告げてから、すぐさまシグリオはもう一度水の魔力を練り始める。


 大魔法に次ぐ大魔法だ。いくらなんでも気が遠くなる。魔法を練っている間は剣一本で〈影獣〉を片付けるしかない。光が強まるにつれて、儀式が終わりに近付くにつれて影は濃くなる。〈影獣〉は強く、速くなり、対して強い光の中でこちらの動きは鈍っていく。


 けれどそれは、彼女が一番だろうと。

 瞼を閉じて懸命に光の魔力を放ち続ける隣の彼女に、シグリオは強く勇気付けられて。


 閃いた爪をすれ違うようにいなす。縦に閉じられようとした顎を、剣を宙に放り投げて無理やり片手足で圧し開く。跳び来る三つの牙を、剣を再び掴まえて、彼女の腰を抱いて、最小の動きで切り抜ける。


 チカッ、と天窓がきらめく。

 それが、十秒前のことだった。


 ほんのわずかな間に、シグリオはその光景を目に焼き付ける。今まさにアルセアの放つ光の魔力が天へと上り、後ほんの少しで〈魔法層〉の〈光玉・エルニマ〉へ届かんとする景色。その構造。自分がすべきこと。


 一度だけ、瞬きをする。


 瞼を開く。

 これから起こるはずの全ての出来事を、覚えている。


『顕現確認!』


 メィリスの声が響いたのが、確かに七秒前。塔の中から外は見えない。それでも轟音が響く。本能的な恐怖に足が竦みそうになる。


 けれど、アルセアの集中は全く崩れる様子がない。

 可能だ、と確信した。


「――――〈焼界〉!」

 最初に外壁を突き抜けて耳に届いたのは、大公爵の声だった。


 遅れて爆音。それが聞こえたころにはもう触れていたはずだと思う。六秒目に起こることを、それからシグリオははっきりその目に捉える。


 内壁が吹き飛んでいく。その形を、瞳に焼き付けている。

 天窓がひしゃげる。硝子がたわんで砕ける。無数の光。降り注ぐそれは、巨影の腕に吸い込まれて、消えていく。


 夜が見えた。

 星と月の、輝く空が。


 六秒目が終わる。巨影の腕が振り抜かれていく。火の大魔法に下から突き上げられたそれは、シグリオとアルセアの頭の上を、僅かな煙だけを尾のように残して流れ去っていく。


 五秒目。



「〈氷城〉!」

 唱えれば、もう一度そこに塔が生まれ始める。



 瞬く間の出来事だった。きっと外から見れば、塔が失われたほんの一瞬すら捉えることはできなかっただろう。影が崩したはずの塔が、見る間にその形を取り戻していく。時が遡ったわけでもなければ、失われたことが夢になったわけでもない。


 彼の唱えた魔法が、再び塔を作り出す。

 氷の城――〈光玉・エルニマ〉へと導く、冬の夜の最後の大魔法。


 四秒。

 とうとうそこに、〈光玉・エルニマ〉の姿が現れた。


「――――っ」

『塔の役割はもうない!』


 その光が発する熱に思わず呻きを上げたのと、メィリスの分析が耳に届くのは同時だった。咄嗟にシグリオは氷の魔法の維持を投げ捨てる。氷は瞬時に熱に溶け出して、たった二秒の魔法が終わりを告げる。


 最後の三秒。

 巨影の腕が、もう一度見えた。


 もう大魔法は使えない。気力体力の問題ではなく、ここから新たに編んでいては間に合わない。だからシグリオは、アルセアを抱き上げる。


 二秒。

 巨影の運動軌道が決まった瞬間を、ふたりは宙に跳んだ。


 氷の足場が、次々とシグリオの足元に現れる。


 ほんの一瞬だってそれは形を保っていられない。踏んだ端から蒸気になる。雨になる。飛沫がきらめく。ふたりは空に舞う。


 最後の氷を踏んだ瞬間に、巨影がその下を通り過ぎる。


 一秒。

 シグリオが、腕の中の彼女の名を呼ばなかったのは。




「――――〈ひかり〉」

 彼女の声が、聞こえるような気がしたから。




 長い夜が明けたように。

 空は、真っ白に輝いた。


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