02話 準備万端?
1
人を馬鹿にしている、と。
聖女に選ばれた瞬間にアルセアが最も強く思ったのは、それだった。
それは、中央の大聖堂で行われることになっていた。だから前もって東の支部に集められた。遥々と馬車に乗って大陸を渡ってきた。候補者は何人もいた。けれどその道中、見慣れない景色に戸惑いながら、ときに初めて顔を合わせる別の教会の候補者たちと話を弾ませながら、交流を重ねながら、しかしアルセアの心には常に、ひとつの確信があった。
〈聖女選定の儀〉なんて、必要ない。
選ばれるべきたったひとりが誰なのかなんて、わかりきったことなのだから。
辿り着いた大聖堂の最奥には、吹き抜けの塔があった。
ヴェールを羽織り、目を伏せて、その内周を巡る長い回廊を螺旋のように上っていく。幾つかの地点で他の支部から、あるいは本部から招集されたのだろう、他の聖職者の一団と出会う。すれ違って、別れていく。
それだけのことなのに。
歩く者は、少しずつ減っていった。
聞いていたとおりだった。賢者ロディエスが遺した選定の結界。『正しい資格を持った者』だけが先へ、上へと進むことができる。そうでない者は足を止めて、定められたとおりに来た道を戻っていく。
思いのほか長く、とそのときは思った。
本当のことを言うとアルセアは、自分がここに来る理由なんて全くないと思っていた。なぜと言って、選ばれるのは自分ではないのだから。わかりきった『不適格』の判を丁寧に押してもらうためにこんなところまで来る理由はない。わざわざ足を棒にして、そっと吹き抜けの方を覗けば足が震えてしまうような塔を上る必要はない。
だけど教会のみんなに、背中を押されたから。
姉さんも、「いいんじゃない」と言ってくれたから。
ただ、いつものように自分の前を歩いてくれる彼女の踵だけをひっそりと視界に収め続けて、帰り道に待ち受けるだろう長い下りの階段に気持ちを憂鬱にしたりして。
思っていたよりも、ずっと長い距離を歩いていた。
「、」
そして、そのときが訪れる。
思わず顔を上げてしまった。何かがあったのだろうと思ったから。そうでなければ、視界に映ったその出来事の説明がつかないと思ったから。
追いかけていた踵が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと、目の前にいた彼女が回廊の端へと寄っていく。何が起こったのかわからなかった。立ち止まるべき何か、他の理由があるのだろうと思った。誰かに訊いてみたかった。けれどいつも一番に自分に物を教えてくれる人は、儀式の取り決めを守り続けているのだろうか、ヴェールの下で目を伏せて、口を開くことはなくて。
後ろを見た。
自分の他に、誰の姿もないことに気が付いた。
後は、ただ信じられない気持ちのままだった。
ほんの数十歩のことだった。それまでの長い道のりが嘘のようで、きっと、いつものように朝に起きて、食堂に行くまでに歩く距離よりも短い。一歩、また一歩と進む。誰に会うこともない。入ってきたときだってあれだけ厳かに見えていた聖塔が、今は一層静かになって。
たったひとりで、頂上に辿り着いた。
きっと、美しい光景だったのだと思う。この百年、他に誰も見たことのない光景。塔の最上階で、〈魔法層〉の際に存在する〈光玉・エルニマ〉の光が、千年をそこで透き通り続けた天井の硝子に、きらきらと輝いている。
ヴェールを脱ぐ。
右の手で、それを吹き抜けの底へと放り投げる。
馬鹿にしている、とアルセアは思った。
2
どうして選ばれたかはわからないが、選ばれたからには果たすべき義務がある。
だからシグリオ・フランタールは、己がすべきことを適切にこなすことにした。
「わ、若。他に何かすることはありませんか?」
「ない。……はず」
言い切ってくださいよぉ、と隣で椅子に座り込んだニカが溢したのは、西の聖堂でのこと。
あれから、一月が経っていた。
つまりシグリオが聖騎士に選ばれて、その職務に手を付け始めてから。
儀式のための適切な手順。儀式以外のための――つまり、今後百年の国の行方を左右する仕事を行うための、適切な礼儀作法。大した勢力でもない辺境伯の跡継ぎが聖騎士に選ばれたことで生じる軋轢の解消。普段はほとんど交わりのない中央教会との折衝。何事も始まりが最も煩雑で忙しないものだけれど、同時に何事も始まりが最も気力に溢れ、数々の失敗を互いに見逃し合えるものでもある。
右に左に慣れない都で奔走し、それから休む間もなく慌ただしく出発して。
ようやく、ここで一息を吐いた。
西の聖堂。〈光継式〉の、最初の祈りの地。
儀式が始まるまで、残り一時間。
礼拝堂の隣の部屋。西の支部の聖職者が快く貸してくれた待合室で、シグリオは資料を片手に持って、壁にもたれかかっていた。
「そんなに心配するな。さっき教会側も合わせて四人で準備完了の読み合わせをしただろう」
「それは……そうですね。うん、そうだ。大丈夫。僕が不安を煽っていたら世話がない……」
ふう、と長く、自分に言い聞かせるようにニカは息を吐いて、
「とりあえず一段落ですね。ただ一応、人員配置で混乱しているところがないかと、設備関係に不備がないかを目視で確認しておきます。計画書だけではわからないことも、口で伝えただけではどうにもならないこともありますから」
「ああ、頼む。それなら私も……と言いたいところなんだが」
「ご無理なさらず。若は儀式中も役割があるでしょう。しっかり資料を読み込むことをおすすめしますよ」
資料ね、とシグリオは目を細めて。
はらり、とそれをニカの前でひらつかせる。
「これをか?」
そこにはほんの短い文字数で、こんなことが書かれている。
塔に聖女が入る。
聖騎士が塔の前に立つ。
聖女が祈る。
聖女が出てくる。
以上。
「…………ま、まあ。万が一ということもありますから」
さしもの心配性のニカも、つつー、と瞳を逸らしながら立ち上がって、
「それでは、また儀式前に。あ、今度は遅刻寸前なんてやめてくださいよ。外には出ないでくださいね」
言い残して、待合室を去っていく。
残されたのは、シグリオひとり。仕方ないから、ニカが使っていた椅子にそのまま座り込む。己の手元にある、国の大図書館と教会に残されていた記録を基に作られた非常に厳正で格調高いその手順書に短い時間で七度も目を通す。顔を上げる。ふと思いがけない部屋の広さに気が付いて、身のやり場を失ったりする。
いまだに、とシグリオは思う。
広くて立派な場で居心地悪く感じるのは、貴族の端くれとしてはいかがなものだろうか。
もう四度手順書に目を通してから、椅子を引いて立ち上がった。数歩を歩く。口の中でさっき読んだ内容を呟く。手順書を見る。一言一句、そっくりそのまま合っている。
遅刻しないように、と言われたことが気にかかって。
万に一つがあるとするならそちらだろうと思ったから、そのまま部屋を出ることにした。
教会の内部構造は頭の中にほとんど入っていた。入り切っていないのは、たとえ聖騎士として選定された者といえども教え切ることはできないとされた極秘の、防犯に関わる部分。少なくとも今回の〈光継式〉を遂行するに当たっては支障はない。待機すべき場所がどこかなんて、目を瞑っていても辿り着けるに決まっていた。
西の聖堂は、この国における一般的な教会の様式から大きく外れたところのない、オーソドックスな造りをしている。エントランスから扉を潜れば長い廊下があって、その先に大きな礼拝堂。窓の多くは中庭に向いていて、位置はかなり高い。礼拝堂にはいくつか扉があって、側面から別の廊下に抜けていくと、ちょうど今までシグリオがいた待合室まで辿り着く。
〈光継式〉を行う塔に進む場合は、この廊下をずっと奥に進んでいって、一度外に出る必要がある。
その廊下を歩きながら、ふと思った。
今頃あの聖女様は、何をしておられるだろう。
もちろん、居場所を知らないわけではなかった。〈光継式〉の間、聖女の身の安全を確保するのも聖騎士の仕事のうちだ。今はこの側廊の先にある別の待合室で、フランタールの護衛が扉の前に立って、彼女を守っているはずである。
けれど。
さっきまでずっと教会や貴族、国の行政官たちと調整を行っていたから――それはこの西の聖堂に着いてからの短い時間ではなく、聖騎士として選ばれてからずっと、ということであって。
シグリオはいまだに。
ろくにあの聖女――アルセア・クィルテリアと言葉を交わせていなかった。
もしも余裕があるようだったら。
彼女と話してみるのもよいかもしれないと、そんなことを思った、ちょうどその瞬間のことだった。
「……?」
音が、聞こえてきた。
ただの音ではない。一連の、流れるような音。曲。音楽。今日の西の聖堂は〈光継式〉のためにと礼拝堂の使用も控えられているから、それはきっと、信徒たちが口ずさむ讃美歌ではない。目的としていた方向へ歩みを進めれば進めるほど、その音は近く、はっきりと耳に届くようになる。
扉の前に立てば、そこから響いているのだとわかった。
「若」
扉の前には、フランタールの護衛がひとり。少し年配の彼は「警護開始から異状はありません」とひとまずの報告をした後、シグリオの視線の先を一緒に確かめるように振り向いて、
「さっきから一時間ほど。弦楽器には詳しくないんですが、ヴァイオリンで合ってますか」
「ああ。……上手いな」
「若もそう思いますか。そうなると、俺の耳も満更遠くなるばかりじゃないらしい」
まだまだだろう、とシグリオが言えば、そろそろですよ、と護衛は笑う。それから二、三と言葉を交わした。雑務……失敬、高度に総合的な事務処理は無事終えられましたか。雑務に耽る私たちの背中を、非常に勤勉なお前たちが一秒たりとも休むことなく守ってくれたお陰でな。照れますね。なかなか都合の良い耳だ。
それで、若はどうしてこちらに?
「やることがなくなってな。先に塔の近くへ行って待機していようかと」
「一時間も前ですよ?」
「一時間も前だからだ。身の置き場も心のやり場もどこにもない。なら、さっさと現場に行ってしまった方が気が楽になる」
「この間の遅刻寸前の大レースから学ばれた……わけじゃないでしょうね。御当主から言われますよ。貴族たるもの――」
「鷹揚に、余裕を見せて。……都で会った聖騎士候補たちは、驚くほど鋭い目をしていたが」
「それでも余裕を見せていたのかもしれませんよ。実際はその千倍くらい腸が煮えくり返っていたりして」
「怖いことを言うな」
はは、と護衛が笑う。それでも選ばれたからには、と軽口を繋げようとする。
けれどそのとき、音が止まった。
「…………」
「…………」
だからふたりは、ぴたり、と揃って口を噤む。
しばらくしてまた音色が聞こえてくれば、ふたり揃って息を吐く。
今度は、小さな声で。
「集中を乱してしまいましたかね」
「聞こえるのか? 中に」
「普通は聞こえないと思いますが。音楽をやるような方だと、耳もよろしいんじゃありませんか」
それはどうだろう、と思いつつも、しかしシグリオもこれ以上この場で喋り続けて時間を消費しようとは思わなかった。これから儀式に臨む聖女を煩わせるのは避けたい。確かに、ここでこうして他愛のない話をしていれば気が解れることは確かだけれど――、
「……なあ」
「はい」
「代わってみるか。門番を」
「はい?」
ほら、とシグリオは自らの胸を軽く叩いて、
「騎士だろう。私は」
「…………」
しばらく、まじまじと護衛はシグリオの顔を見ていた。
それから不意に呆れたような苦笑を浮かべると、
「ま。高度に総合的な事務処理を頑張られていたようですから。お得意の騎士の方の仕事も用意……失礼。若の寛大な優しさに従いまして、喜んで門番の役割を代わっていただきましょう」
年若い甥を労わるような手つきで、シグリオの肩にぽん、と手を乗せた。
悪いな、とシグリオは応えた。思い付いたのだ。別に、話をしている必要はない。単に今の自分に必要なのは、儀式の時間までを埋める何か――つまり、不安をかき消してくれる『仕事』なのだと。それもできれば、ニカのように「あれはやったんだっけ」とか「これは大丈夫だっただろうか」とか、そういう不安に襲われることなく無心で行える仕事が。
「手の空いている間に、何かしておくべきことはありますか?」
「ニカが心配性をこじらせてる。治しておいてやってくれ」
「治さんでいた方が若のためかとは思いますが、承知しました。警備の指図について、親友のように語らっておくとします」
それでは、と護衛が頭を下げて廊下を遠ざかっていく。
部下にはいつも恵まれている。
そのことを思いながら、シグリオは扉の前に立つ。腰には一本の剣。儀礼用にと辺境伯から借りてきたものではあるけれど、立派なのは格だけではないとも知っている。
しばしの無心。
扉の前でヴァイオリンの音色を聴きながら、シグリオはそれからの四十五分を過ごした。
3
十二分前。
本来の速度で演奏できていたとすれば、そのはずの時間だった。
それでこの部屋に来てから二度目、アルセアは備え付けの時計に目をやった。十二分前。合っている。当然のことではあるけれど、その程度のことが自信になる。そのままヴァイオリンを下ろす。ケースにしまうかどうかを少し迷って、結局しまうことにした。儀式が終わればすぐに移動をすることになるかもしれないし、焦って楽器を扱いたくもない。
そっとそれを収納して、残り十分。
誰も部屋に呼び込みには来ないけれど、そろそろ行くのがいいだろうと、自分で思った。ケースを置く。姿見の前で服の襟と髪の流れを整える。理想の姿とは程遠いままでそれを終えて、部屋から出る。
「おや」
「、」
扉を開けると、すぐ近くにいた。
「そろそろ行きますか。まだあと十分……余裕を見ても五分ほどはありますが」
懐中時計を手にしてそこに立つ男。
シグリオ・フランタール。フランタール辺境伯領の、跡継ぎの青年。
如才ない笑みを浮かべた彼が、そこにいた。
「……来ていたのですね」
「ええ。私も一緒に参りますので」
ずっとここで立っていたのだろうか。
アルセアは不審に思う。この部屋に入ったときに門番に立ったのは、間違いなくこの男ではなかった。いつ入れ替わったのだろう。それに貴族の男が、たったひとりで自分の部屋の扉の前に?
「ああ。集中していらした様子でしたので、前もってのご挨拶は控えさせていただきました。不愛想に映りましたら恐縮です」
アルセアは、この男とほとんど会話をしたことがない。
〈聖騎士選定会議〉より以前は当然のこととして、それ以降も。聖女として学ぶべきことは多く、教会の内部で様々なことをみっちりと教えられてきたし、聖騎士も聖騎士で、政務に関係する初動を包括的に処理することになる。機会がなかった。
知っていることと言えば。
〈聖騎士選定会議〉に当たって教会から渡された基本的な資料と。
その会議に全く定刻通りに現れたという、奇妙な几帳面さのふたつだけで。
「あなたはきっかり時間通りに行動されるようですが、私は多少時間より前に着いていた方が安心しますので」
「……はい、承知いたしました。では、〈光継式〉の聖塔までご案内いたします。こちらへ」
正直なところ、いまいち掴みどころがない相手で。
貴族に対してアルセアが持つ一般的なイメージと重ね合わせると、それは『得体の知れない』という形容に変わってしまうのだけれど。
それでも――。
「……何か?」
長い廊下を歩いている途中、ふとアルセアは彼に訊ねた。はっきりとした根拠があったわけではない。ただ何となく、こちらを振り返ってついてきていることを確かめる彼の視線の中に、何か問いたげな色があるように思えた。
「いえ」
彼はそう答えたけれど、しかしかえってその声色が、問いかけの必要を裏付けたように思えた。だからアルセアは、
「訊きたいことがあるなら、はっきり言ってください」
強い口調でそう告げる。
するとシグリオは「では失礼して」と、〈光継式〉を前にして緊張のひとつもないのだろうか、底の知れないような、笑っているともそうでないとも付かないような曖昧な表情で、
「どうして、私を聖騎士に選ばれたのかと。お話する機会もありませんでしたから、気になってしまいまして」
そんなことを、言うものだから。
シグリオの押さえる外への戸を潜れば、もう聖塔はそれほど遠くなかった。儀式の始まりは塔の扉をくぐるところからで、きっと残りの時間は五分と少し。もしもその質問に対して今から答えを考え出すのであれば、ひょっとすると言葉にして伝え切る余裕もないような、ほんのわずかな残りの道のりではあったけれど。
初めから答えを持って決めたことだったから。
そのわずかな時間でも、アルセアははっきりと口にすることができた。
「候補者の中で最も騎士に相応しい能力を持っているのが、あなただったからです」
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