プロローグ

「ねえ聞いてくれ、から抜け出す方法が分かった!」


 興奮した僕に気押されるように、江崎さんはめがねの向こうのつぶらな瞳を見開き、ピンク色のカーディガンのすそのなかにその小さな手を閉じ込めたままの姿勢で硬直していた。


「誰でもいいから生徒をひとりことなんだ! 僕はその現場に居合わせたんだ。三年の雲井周助が恋人の天野をトイレの壁に叩きつけて殺した時、やつは姿を消したんだよ――」


「やめて!」


 江崎さんは叫んだ。


「痛いよ」


 気がつくと、僕は江崎さんの骨ばった両肩に手を食いこませ、床についた黒ストッキングの両脚の間に、自分のひざ頭を割りこませる恰好になっていた。


「ごめん」


 慌てて、江崎さんから身を離した。それでも僕の興奮は止まらなかった。冷静になるように努めながら、話をつづけた。


「壁ひとつへだてたトイレの個室から雲井の消失を感じたんだよ。俺は待った――なんせ。そうしたら、ちょうど十五分後に周助が戻ってきた。消えた時と同じようにまたフッと現れたんだよ」  


 江崎さんは三つ編みの髪を整え、ブラウスの上にはおったピンクのカーディガンのシワを直した。めがねの奥の黒目がちな両目は僕にすえられていた。


「僕は自分の個室のかげからこっそりと雲井をうかがった。なんと、やつの手のひらには今までなかったものがあった――金属バットだ。彼はその時身をもって知ったんだ。この閉鎖世界の〈ルール〉を。人を殺すと特典がある。殺した人間の〈財産〉をすべて奪うことができるんだって」


 一気にまくしたて、水道水をくんだペットボトルを一気に飲み干した。


「それから猛然とトイレの外へ飛び出していった。それでさ、次になにが起こると思う? 彼は生徒すべてを殺してその〈財産〉を手に入れる気なんだ! 殺せば殺すほど得するからね。やがてその〈ルール〉が知れ渡ったら、どうなる? みんながみんなを殺し合うようになるだろう!」


「そんな話を信じろっていうの?」


 僕に向けられた江崎さんのまなざしには、彗星のしっぽからちぎり取ってきたような冷たい光が宿っていた。


「いまこの状況こそ信じられないものだろう。校舎をおおう黒い障壁バリア、周囲から隔絶かくぜつされた校舎――こんな異常な状況から抜け出すには、なにか異常なことをしなきゃいけないんだよ」


「それじゃあ、御堂みどうくんは誰かを殺すつもりなの――同じ学校の同じ生徒の誰かを」


「それは……」


 言葉に詰まった。でも、次の瞬間には立て板に水のごとくあふれ出てきた。


「僕は殺すよ。君だって殺すしかないんだ。それが唯一の方法なんだよ――この〈学校〉のなかから生きて出るための。もちろん相手は誰でもいいわけじゃない。殺していいやつを殺すんだ――菅田とか井上みたいな最低な連中をさ」


「私はやらない」


らなきゃ殺られるんだよ、江崎さん。そういう〈ルール〉が敷かれたなかに僕たちはいるんだ。あまり時間はない。雲井はもう行動を起こしている。みんながこの〈ルール〉に気づくまで長くはないはずだ。まもなく生徒たちの、生徒たちによる大量殺戮たいりょうさつりくがはじまる。その前に行動を起こさなきゃ。君だっていじめられてたんだ。殺したいやつのひとりくらいいるだろう」


「いないよ」


 頭に血がのぼっていくのを感じた。これだけ説得しても江崎さんはどうして頑なに僕の提案を拒むのか、どうしてこの期に及んで「殺したいやつがいない」などと清廉潔白せいれんけっぱくなふりをしようとしているのか。


「いないはずがないだろう。草木くさぎ絵乃えのなんかどうだ。君の気持ちを裏切っておいて、のうのうとしている。僕もあいつは嫌いだ」


 江崎さんへと手をさしのべた。


「ここから出るためだ。


 江崎さんは首を横に振った。


「私は殺していい人がいるなんて思ってもいない」


「そんなのは欺瞞ぎまんだ。この世界に生きていて殺したいやつがいない人間なんて――」


「だったら御堂くんは、私を殺せばいい。今すぐここから出られるよ。殺したらどう? あなたが言うには時間だってないのでしょう」


「何をバカなことを。僕に君を殺せるわけがないじゃないか。だって、江崎さん、分かるだろ、君は僕の――」


「私はあなたの何?」


「君は―――――」


 我慢の限界だった。江崎さんは僕の気持ちを知っていて、あえて挑発してきている。その態度に腹が煮えくり返るようだった。その華奢な肩をもう一度強く握りしめた。


「僕たちは大事な友だちじゃなかったのか」


「御堂くんが勝手に私に仲間意識を持っているなっていうことは薄々分かっていた。でも、私は正直御堂くんの言うことに共感したこともないし、仲間だとも思ってはいないから」


「いい加減にしろ!」


 次の瞬間、僕の両手は江崎さんの首筋をにぎりしめていた。


「っぐーっ」


 白く柔らかな首の肉に十本の手指が食い込む。空気を求め、江崎さんは儚い呼吸を続けようとする。江崎さんの、眉根を寄せた苦しげな表情は、どこか蠱惑こわく的だった。


「くっ……」


 江崎さんの爪が僕の両手に食いつく。だが、抵抗されればされるほど僕の中で怒りがふくれ上がっていった。


「望むのなら殺してやるよ、江崎さん」


 僕は更に力をこめた。

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