ホール・イン・ハッピーエンド

池田春哉

第1話

「あ」

 忘れものをした、と気が付いた。冷たい風が吹く駅のホームでのことだ。

 どうして今気付いたのかはわからない。

 しかしそれより問題なのは、何を忘れたのかわからないということだ。何を忘れたのかわからなければ取りに戻ることもできない。

 不思議なことに忘れたものはわからないのに、忘れものをしたことだけはわかった。

 空洞が見えたのだ。

 完成されたジグソーパズルのピースがひとつ外れてしまったように、ただぽっかりと今までそこにあったはずのものが無くなっている、ということだけが感じられた。

 それがジグソーパズルのように特徴的なシルエットをしていればまだ良かった。

 空洞が傘の形であればきっと僕はどこかに傘を置き忘れたのだろうと考えるし、星の形をしていればクリスマスのオーナメントか水族館のヒトデだろうかと予想がつく。

 けれど僕のそれは、強いて言えば『点』だった。

 太陽を直接目で見たときに現れる残像のように輪郭がはっきりとせず、少しでも意識を外せば見失ってしまいそうなほどにぼんやりとした黒点だった。

綾人あやとくんは近視の世界を知らないんだね。そうだね、とっても幻想的だよ。展望台から見渡す街の灯りみたいに溶けそうなほど曖昧で。ただ目の前の全部が全部節操なく幻想的になっちゃうからロマンチックどころか不安でしかない」

 眼鏡を外した彼女が以前言っていた『近視の世界』とやらはこういうもので溢れているのかもしれない。それほどに曖昧で不確かなものだった。

 考え事をしている間にホームには人が増えてきた。太陽の沈みきった夜は真っ白な蛍光灯が代わりを務めている。スピーカーから列車到着のアナウンスが流れた。

 まあいいか、とひとまず気にしないことにした。僕は到着した電車に乗り込む。

 席が偶然ひとつ空いていた。

 飲み会終わりの会社員の帰宅ラッシュと部活終わりの学生の下校ラッシュが重なるオーバーキルタイムでこの偶然は奇跡と呼べる。

 僕はリュックサックを抱えて空いていた席に座った。

 中に入れた紙袋がくしゃりと潰れる。計算され尽くされた座席スペースに僕はぴったりと収まった。ほんのりあたたかい背もたれに身を預ける。

 もやもやとした。なんだか気持ち悪い。

 スマホの保護フィルムに気泡が入ってしまったときのような、貼ったシールが微妙に傾いていたときのような、うまく噛み合っていない気持ちの悪さを感じていた。

 この『点』には何が入ってたんだろう。

 扉が閉まり、電車が動き出す。

 僕は今日をゆっくりと振り返った。

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