第3話 ソビエト連邦の「宇宙人」
冷戦期、ソビエト連邦で行われた薬物投与と暗所監禁による捕虜洗脳実験において発生した事象。西側のスパイとして捕らえられ、実験に供されていた捕虜の一人が「自分は宇宙人である」としきりに繰り返すようになった。薬物の過剰投与による脳の損傷であると判断した医師により、その捕虜は実験から外されたが、その後も妄言は止まることが無く、「もうすぐ人間への擬態が解けてしまう」「このままでは私の意思に関係なく君達を皆殺しにしてしまう」などと嘯き、看守や実験担当官を困惑させた。最終的にその捕虜は使い物にならないとして殺処分されることとなったが、処分決定から数日たっても執行完了報告が上がってこない。このことを不審に思ったソ連科学アカデミー担当官が現地に赴き、実験施設の惨劇の第一発見者となった。施設内は、軍事攻撃を受けたのかと誤認してしまう程、手当たり次第に破壊され、至る所に職員の死体――中には、一見して人間のものとは判断がつかない程損壊の激しいものもあった――が転がっていた。事態を重く見た担当官から連絡を受けた中央政府は軍隊を非常招集して当該施設を包囲し、細心の注意を払いながら破壊された実験施設の内部を確認した。最終的に生存者が一人もいないことが判明したのは、捕虜殺処分の決定から10日後であった。実験施設の職員たちは皆、食い千切られ、引き裂かれ、捩じ切られ、踏み潰されていた。人の手によるものとは到底思えない、猛獣が暴れ回ったとしか考えられないような惨状であった。そして、その惨劇を引き起こした元凶――アカデミー担当官は当該事件の報告書において、頑なに「犯人」ではなくこの「元凶」という単語を用いていた――は、施設のちょうど真ん中にある中庭のエリアで絶命しているのが確認された。それは、殺処分命令が下されていた例の「宇宙人くん」であった。彼の肉体は他のどんな被害者よりも損壊が激しかった。四方八方から浴びせられたと思しき銃弾は肉体の至る所に食い込み、あるいは破砕貫通し、彼の肉体を襤褸のようにズタズタにしていた。だが、何より調査官たちを震撼されたのは、彼がそんな状態にもかかわらず、少なくともこの惨劇の終盤付近まで生き残っていたという事実であった。実際、発見時点で彼の肉体には生体反応がまだ残っており、微かに身体を動かそうとする仕草すら見せたのだ。状況から推察して彼は、最後の一人の犠牲者を仕留めた所で、ようやく事切れたとしか考えられなかった。そして――何よりもこの事件の調査にあたった科学アカデミー調査官たちを困惑させたのは、その「宇宙人くん」の身体が、彼を止めようとした施設警備員によって浴びせられた攻撃によるものではありえない、尋常ならざる生態変化を遂げていた点であった。骨格は奇妙に捻じ曲がり、人体としてはあり得ない関節や接合部分が至る所に出来上がっていた。皮膚は至る所が角質化し、まるで鱗の様であった。眼球はカメレオンの如き斜視で、瞼から斜めに飛び出ていた。最早瞬きすら出来ないのではないかと感じてしまう程の怪異な容貌であった。血液も、人間はおろか如何なる生物のそれとも違う色彩と粘性を有していた。全身の傷口から零れ出るその血は、まるで彼の全身に寄生したスライム状の寄生生物が逃げ場を求めて流れ出て来ているかのようであったという。見る者全てに根源的な不快感を与える、そんな不浄性を湛えた血液であった。だが調査官たちにとって、どんな不快で不浄な所見よりも恐ろしいのは、目の前に横たわる死体が紛れもない人間のものであるという事実であった。捕虜の生体情報は、実験施設入所直後から1日単位で克明に記録される決まりとなっていた。その「宇宙人くん」もまた、入所直後からレントゲンやバイタルデータのみならず、血液や皮膚サンプルを採取されていた。そして全てのデータは、彼が違法薬物も摂取していなければ、特段の既往症も無い、紛れもない普通の人間であることを示していた。つまり、合理的に考えるのであれば、かの捕虜が「自分は宇宙人である」という妄想に取りつかれたこの数週間の間で、彼の身体は人ならざる何かに変貌した、としか考えられなかった。いっそ、本当に宇宙人であればどんなに良かったか。調査官の一人はそう書き残している。
この事件がソビエト連邦中央政府の方針に如何なる影響は与えたのかは定かではないが、これ以降、捕虜の洗脳に関する研究は縮小の一途を辿っていった。ソ連崩壊後、当時の研究に従事していた科学者の一人はこう語っている。「人間精神と肉体の関係に踏み込むには、人類はまだ幼すぎる」と。
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