第55話 夏休み前にやってきた危機
この日、最後の授業は体育でサッカーだった。
よく晴れた暑い日だったが、期末試験が終わった解放感から、みんなで夢中になってボールを追っていた気がする。授業が終わり、更衣室で着替えているとスマホが振動した。画面を見ると、母親からの電話である。俺はみんなから離れて、スマホを耳に当てた。
「ああ、良かったつながった」
「母さん、どうしたの?」
「瞭子にも電話したんだけど、三者面談の予定が知りたいのよ。父さんの仕事は落ち着かないけど、待ってられないから思い切って帰ろうと思うの」
どうやら父親の仕事はまだ大変なようだ。俺が学校行事の予定を話すと、母親はまた連絡すると言って通話を終えた。
電話をしているうちに、着替えがおわったみんなは教室へと戻ってしまったようだ。遅れてしまったが、最後の授業なので問題はない。それに、最大の懸案であったテストが終わった今となっては気楽なものである。俺は、ゆっくりと着替えて教室へと戻ることにした。
放課後はどうしようかなと考えながら教室に戻ると、周囲に人だかりができていた。不思議に思って近くの男子生徒に話を聞こうとしたが、彼は俺の顔を見るなり戸惑った表情を浮かべる。
「あっ、一ノ瀬、お前、また……」
「ん? またって、どういうこと」
「いや、その……ほら」
彼は言いにくそうに教室の中を指差す。この時点で何だか嫌な予感がしていたのだが、俺は思い切って教室の中に入った。
窓際に、八重藤学院の制服を着た女の子が立っている。
彼女はこちらに背を向けて、外の景色を眺めているようだ。開いた窓から流れる風が、彼女のきれいな長い髪を揺らした。一瞬、見とれそうになったが、今はそんな場合ではない。つかつかと近寄ると女の子が振り返った。
「一ノ瀬さ……明さん。お久しぶりです」
「えっ? 白河さん。どうして」
こちらを向いて頭を深々と下げたのは、
「お騒がせしてしまったようで申し訳ありません。ですが、その……どうしてもお話しておきたいことがあって、ご迷惑と知りつつも来てしまったのです」
「そ、そうだったんだ。まさか、瞭子が何かしでかしたとか」
「いえ、違います。明さんにお話があるのです」
こちらを真っ直ぐに見つめてくる白河さんには、目を逸らせないような迫力があった。俺はなんとか心を落ち着かせ、平静を装う。彼女のただならぬ雰囲気に、周囲のクラスメートたちも息を潜めているようだ。
「あっ、ここだと目立つから場所を変えようか」
「いえ、大丈夫です。……むしろ決心が鈍ってしまいそうですので、ここでお話します。それに、人目を気にしているようでは成すことができないと思うのです」
そう言って白河さんは、じっと俺を見た。凛とした和風の顔立ちに、切りそろえられた前髪がよく似合っている。こちらに向けた眼差しには力があったが、どこか必死な様子が伝わってきた。
「……っ、あの」
何かを言いかけた白河さんだったが、言葉につまって下を向いてしまう。だが、自分を奮い立たせるように顔をあげた。不安と緊張が混ざった彼女の表情に、俺は鼓動が早くなるのを感じた。
「明さん、わたしは……あ、あなたに交際を申し込みます」
一瞬、白河さんが何を言ったのか理解できなかった。交際、つまりは付き合うということか。友達として? いや、この状況でそれはないだろう。俺の勘違いだということは、彼女の様子からしてありえない。
教室は静まりかえっていたが、少し間があってから大騒ぎになった。クラスメートたちのどよめきと、一部悲鳴のような声も聞こえてきた気がする。周囲の騒ぎにかえって冷静になったのが、白河さんは深呼吸するような仕草をみせた。
「ふう、言葉にすると少し楽になりました。……明さんとは数回会っただけですから、このようなことを言い出して驚かれているでしょう。ですが、もうすぐ夏休みになります。そうすれば、わたしは明さんの連絡先すら知りませんから、お会いすることはできなくなってしまうのです。そう思ったら、居ても立っても居られずに衝動的に来てしまいました」
「そうだったんだ。勇気を出してきてくれたんだね」
「はい、とても緊張しましたし、このような行為は慎みがないとも思っています。ですが、後悔はしていません。気持ちを伝えることができて、良かったと思っています」
白河さんの声は少し震えていたが、健気にも姿勢を正し真っ直ぐに俺を見た。勇気を奮ってくれた彼女には、正面から向き合わなくてはならないだろう。
俺は動揺を無理やり抑え込み、白河さんとしっかりと目を合わせた。
「白河さん、俺は……」
「ちょ、ちょっと待ってー」
唐突に、
「ちょっと、あなた、いきなり他の学校にやってきて何なの? こんな騒ぎまで起こして」
「少し礼を失した行為であったことは認めます。ですが、今は放課後ですし、これは明さんとわたしのプライベートな事柄です。あなたに何かを言われるような筋合いはありません」
「ううう、な、何なのっ」
ぴしゃりとはねつけるように言った白河さんに、桜川さんは顔を赤くして悔しがった。彼女は俺の顔をちらりと見てから、白河さんと向かい合う。
「筋合いは無いって言うけど、あたしは……うぅ、あたしは一ノ瀬君とは1年生の頃からの付き合いなんだよ。なのに、いきなりやってきて告白するなんて」
「えっ、あなたと明さんは既に交際されていると?」
白河さんは驚いたように俺を見たが、俺だって驚きである。周囲の野次馬が、大きくどよめく。その中には、愕然とした表情の寺西くんの姿もあった。
「馬鹿な、……オレの情報網によれば、一ノ瀬と桜川さんは1年からクラスは同じだが、あくまで友人同士のはず。オレは、こんな近くで観察していたのに、見落としていたというのか」
「いや、俺も桜川さんとは、仲の良い友だちだと思ってたんだけど。どういうこと? 場合によっては、とてもひどいことをしていたことになるんだけど」
俺が困惑しながら言うと、桜川さんは慌てて目をそらした。
「うう、付き合いっていうのは、仲良く過ごしてきたってことだけど。でもでも、長い間一緒に居たわけだから、こんないきなり現れた女の子に先を越されるなんて」
「はあ、何かと思えば、紛らわしい表現をしただけではないですか。やはり、あなたに言われる筋合いはありませんね」
白河さんがあきれたような声を出すと、桜川さんはますます顔を赤くする。
「だ、だって、あたしは1年生の頃から一ノ瀬君の良さに気づいてたんだよ。なのに、なのに」
「それは、機会が十分にあったのに言い出せなかっただけでしょう。勇気を出せなかったあなたに、わたしを非難する権利はないと思いますよ」
「はうっ……わかってる、わかってるけど、納得できるわけないじゃん」
そう言って桜川さんと白河さんはにらみあった。これはどうしたもだろう。展開に頭がついていかないが、なんとかこの場をおさめる方法を考えないと。
焦りながら頭を働かせていると、教室の入口の方で何やら動きがあった。通り道をふさいでいた生徒たちが、すっと左右に別れる。
姿を表したのは、瞭子だった。なぜか十条莉世も後ろから、ついてきている。
瞭子は、人だかりにもかかわらず涼し気な様子だったが、白河さんの姿を見るなりぎょっとした表情になった。
俺は、とても嫌な予感がしたのだった。
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