11 兆

 芹沢好哉美術館の彫刻展示室をディスプレイしたのは鈴さんだ。

 最初はマーメイドの彫刻が置かれていたという。

 それが鈴さん自身に摩り代わる。

 いや、鈴さんの言葉を借りれば自身を素材にした彫刻なのだが……。

「その間の意識はないんですか」

 ベッドに横たわる鈴さんの傍らで物怖じせずにわたしが問う。

「意識はあるわよ。でも同時にない。目の前にあることは見えるけど記憶されない。ただ目の前を通り過ぎるだけ。そんな状態のわたしにそれがわかるのは覚醒のときに時間が流れるから。そうでなければ彫刻前後の瞬間記憶しかないはず」

「確かに。……ご病気なんですか」

「さあ、わたしには何とも。祖父が煩いから医者には言ったわ。でも原因不明」

「そんなことはないだろう。創作を止めれば症状が落ち着くと言われたはずだ」

 芹沢館長が横槍を入れる。

「藪医者の暴言ね。創作を止めたら、わたしはもっと酷い状態になるわよ。ねえ、律子さん。そう思わない……」

「さあ。思うような、思わないような」

「まだ自分を出し切ったモノを創ってないのね」

「どうすれば出し切れるのかがわかりません」

「あら、わたしにだってわからないわよ。吉村、水……」

 話して喉が渇いたのか、鈴さんが吉村氏に水を要求する。

 吉村氏が慣れた手つきで鈴さんに吸いのみから水を飲ませる。

 その関係は病人と介護者だが、何故かそれ以上の間柄にも見える。

 どことなく恋人のように思えるのだ。

 吉村氏はおそらく三十前後だろう。

 わたしの人間観察眼が確かならば……。

 容姿は十人並みで目立ったところはないが、それがまたエキセントリックな鈴さんと程良い対比を見せる。

「ねえ、律子さんのこと、りっちゃんって呼んで良い」

 僅かな水を飲み終えると鈴さんが言う。

「構いませんが」

「ありがとう。わたしのまわりにりっちゃんみたいな人が良かったのかな」

「これからはいますから、ご安心を……」

「そうね。実は過去にもいたのかもしれないわね、わたしが気づかなかっただけで……」

「鈴さんは何を見ていたのですか」

「さあ。目に入るモノを見ていたと思うわよ。その中から気を惹かれたモノを集中して」

「人には見えないものが見えますか」

「誰にも同じモノは見えないわ。本一冊にしても、そう。本の背表紙の赤い色一つにしても、そう」

「集中しなければ殆ど同じなんですよ」

「わたしがそれに気づいたのは、ずっと後」

「姉がいましたから。姉にはわたしに見えないわたしの色々が見えるんです」

「わたしには祖父と笙がいたけど、りっちゃんのお姉さんと比べたら、どっちも外れね」

 鈴さんの言葉に芹沢館長と岡田笙が渋い顔をする。

「言い過ぎですよ、鈴さん。二人ともあなたを心配しているだけですから」

 だからわたしが庇うが、当然鈴さんはそれを承知しているだろう。

 素直に態度に示せない鈴さんが、わたしには可愛く思える。

「りっちゃんはお姉さんが煙たいでしょう」

「煙たくないといえば嘘ですが、いえ、煙たいです」

「ははは……。正直でいいわ。でも嘘も方便」

「自分に嘘はつけないでしょう」

「結局、原因は自分か」

「人間が彫刻に変わってしまうウィルスでもない限り、そうですよ」

 生活上何不自由のない鈴さんにもし不自由があるとすれば、それは不自由がないところかもしれないとふと思う。

 だから自分自身や自分の芸術のことばかり考えてしまうのだろう。

 普通の人間はかなりの時間、自分とは直接関係がないことを考えさせられる。

 ついている仕事が嫌いなら仕事までそうなる。

 けれどもそのことが、自分自身との過剰な対話を緩和させているのかもしれない。

 さらに言えば、歪めて見せられた自分の姿もまた誰かの目に映る自分なのだと知ることに意味があると……。

 もっともそれがイジメの結果ならば、やがて人格や命まで破壊されるが……。

「話を変えましょう。わたしが一目で気に入った紗さんの絵はいつ描かれたものですか」

 ついでわたしは芹沢館長に話したのと同じ絵の感想を鈴さんにする。

「題名は見なかったんですけど」

「りっちゃんには想像できる」

「『東屋の眼』とか」

「へえ、わたしが最初に考えたのもそんな感じ。吉村、スープが欲しい」

 鈴さんが吉村氏に要求する。

 すると用意してあったらしく、鈴さん好みのスープがすぐに運ばれる。

 それを吉村氏がスプーンで鈴さんの口に運ぶ。

 二人の息がぴったりだ。

 わたしは見てはいけない光景を見たように顔を赤くする。

「鈴さんと吉村さんって仲が良いんですね」

 自分の顔面変化を誤魔化すようにわたしが鈴さんに問う。

「ありがとう。でも、この人は祖父に頼まれてやってるだけだから」

 それまでと同じ口調で鈴さんがわたしに答える。

 その言葉に嘘は感じられない。

 つまり鈴さんは自分の心を知らないのだ。

 わたしがそのとき思ったことは芹沢館長も岡田笙も感じたようだ。

 二人の顔に動揺の色が走る。

 その二人の様子から二人がこれまで一度もそのように考えていなかったことが、わたしにも一目瞭然となる。

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