7 絵
「ああ、そう、ふうん」
わたしの記憶に芹沢好哉の名はピンと来ない。
だが、それは不思議ではない。
わたしが知る名ではなかったからだ。
では誰が知る名かというと……。
「何これ、面白い……」
けれども、わたしの興味はその方向には進まない。
何故かといえば、そこに絵があったからだ。
「吸い込まれそう……」
わたしは呟いたらしいが、自覚していない。
後に岡田笙に教えられる。
わたしを魅了した絵は種別で言えば風景画だろう。
山間の朴訥とした景色がカンバス内に広がっている。
けれどもそこに人の顔が被る。
二重写しとは違うが、細部がそれぞれのパーツに置き換わるのだ。
手法的に似たような絵はダリにもあったと思うが、あちらは確か四角形。
感覚が違い、色も違う。
光が違い、聞こえる音も違う。
風景画として眺めているときに聞こえる音は穏やかだ。
けれども人の顔に見えると途端に漣を引き起こす。
静と動ではないが、両立しないはずの感情が一枚の絵に同時に流れている。
もっとも、わたしがその絵に魅了された要素はそれだけではない。
一度そんな、いわゆる表の見方を体験すると、次にそれが逆転するのだ。
どう見ても静かな田舎の風景がいつしか肌をざわつかせる。
落ち着かない気持ちにさせてしまうのだ。
逆に苛立っているはずの人(若い男性)の心が深遠を垣間見た者のように澄み切っていて心を落ち着かせる。
その二つ計四つが同時に見えては聞こえ、更に混交し、二の累乗的に増え続けるのだ。
爆発……。
「岡田笙、これ凄い。ねえ、岡田笙にもこれが見える……」
思わずわたしが口にすると、
「たぶん律子ほど見えていないと思う」
岡田笙が冷めた口調でわたしに答える。
「わたしほどには……」
「そう」
「よくわからないな」
「律子にとってはバーンスタインが聴いたフルトヴェングラーのブラ一なんだろう」
「なるほど。で、岡田笙にとっては……」
「オレは芸術家じゃないから」
「そうかな」
「自分で言ってんだから、当たりだよ」
「なら。そうか」
「いや、まだわからんじゃろう」
不意に聞こえてきた老人の声に驚き、振り返ると、
「あれっ」
電車で前の席に座っていた人だ。
……ということは、どういうこと。
わたしの頭の中がこんがらかる。
だが答は相手の方からやってくる。
「お嬢さん、驚かして済まんな。わしは美術館の館長、芹沢好哉です」
「……」
わたしが吃驚して目をまわす。
けれどもすぐに自分を取り戻し、
「ああ、始めまして。わたしは早水(はやみ)律子です」
と挨拶する。
だが心に動揺があったのだろう、続けて、
「で、隣にいるのが岡田笙です」
と付け加える。
岡田笙が芹沢館長と知り合いなのは確定的だが、つい口から出てしまったのだ。
わたしの発言はそこまでだが、芹沢館長はさらに何かが続くと思ったのか待機状態。
そこに岡田笙が口を挟む。
「律子はオレの彼女です」
えっ、えっ、えっー。
でも、そうか。
付き合いを認めたんだからな。
たとえそれが現段階で暫定的であろうと……。
そんなことを考える間にわたしの顔が赤くなる。
何も恥ずかしいことじゃないだろう。
自分ではそう思うのだが、顔面変化が止まらない。
同時に汗も噴き出してくる。
暑い、暑い、暑い……。
そういえば空調がしっかりしているのか、美術館に入ってから、暑いとも寒いとも感じていない。
現時点の状況とは無関係なことを思い出す
ついで『こんがらかる』の語源が脳裡を過ぎる。
『矜羯羅(こんがら)』という大きな単位(十の百十二乗)が関係するというのだ(真偽は未定)。
地方によって『こんがらがる』『こんぐらかる』『こんぐらがる』『こぐらかる』ともいうらしい。
最後の『こぐらかる』は茨城弁だから、実はこちらが本当の『こんがらかる』の起源かもしれない。
「律子はまた余計なことを考えているだろう」
岡田笙の指摘に、わたしがやっと元に戻る。
「ありがとう」
だから素直に岡田笙に礼を言う。
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