第四章 旅路4

「ごめんなさいね、あれでも悪気があるわけじゃないのよ?」


 髪の長い女がすまなそうに声をかけた。


 リックはびくりとしてシュゼットの服をつかんだ。髪の長い女は目を丸くしたあと、くすりと笑ったが、リックににらまれて慌てて口元を隠して小さく、ごめんなさい、と謝った。


「変なふうに威嚇しないの」


 シュゼットはリックの頭をがさつに撫でまわした。


「わ、わかったよ……ごめんなさい」


 リックは嫌そうな顔で言った。しばらく待っていると、隊長格の男が戻ってきた。


「こちらへどうぞ。正式に許可が下りましたので、宿までご案内します」


「感謝するわ」


 シュゼットは礼を言うと、リックをともなって歩き出した。豊かな田畑を抜けて里の中心部へ行くと、木で作られたクニークルスの家が見えてくる。


 各家はかなり離れていて、そのあいだには広大な畑や果樹園があった。浮遊島のように家々は密集しておらず、また中心部に来ても木造の建物ばかりで、石造りのものはひとつもなかった。


 街路は舗装されておらず、街灯も見当たらない。夜になれば、明かりは空から降りそそぐ月の光くらいだ。満月の日でもなければ、人間の目には何も映らなくなるだろう。


 だが、クニークルスやフェーレース、カニスにとって、暗闇は別段恐れるべきものではなかった。彼らは皆、一様に夜目がきく。街灯など不要だった。


 シュゼットたちが案内されたのは里の西側にある家で、ほかの家と同様、一階建ての、高さがない代わりに横に広がった建物だった。


 なかに入ると、まず低い天井が目についた。長身の男が背伸びをして腕を伸ばせば、さわることができそうなくらいに低い。


 そして、地下への階段がいたるところにあった。


 クニークルスは基本的に地下で過ごす。家の一階部分にあるのは、食事を作るための台所と、入浴のための風呂場くらいだ。


 食堂はもちろん、寝室や物置なども地下にあり、階段を降りると夏場ならひんやりとした空気が、冬場ならほんのりとした暖かい空気を味わうことができる。


 シュゼットとリックは、隊長格の先導で地下への階段を降りた。長い廊下は石材によって舗装され、崩落しないように補強されてある。


 隊長格の男はシュゼットに気を遣ってか、わざわざランタンに火をともしていた。そのおかげでシュゼットの目にも、換気のための小さな空気穴が壁や天井にいくつもあることが見て取れた。


 リックは物珍しげに地下の様子をながめ、歩きながら振り返ったり、天井に目を向けたり、壁を見たりと忙しそうに首を動かしていた。表情から、好奇心に火がついていることがありありと感じられた。


 隊長格の男は扉を開けて、地下の一室へ入った。


 調理場の近くらしく、料理のほのかな香りがする。突き当たりの曲がり角が、一階の台所とつながっているのだろう。おそらく台車が使えるように、階段ではなくゆるやかな坂道になっているはずだ。


 シュゼットは男に続いて部屋に足を踏み入れるが、リックのほうは地下の観察に夢中になっていたせいで通り過ぎてしまっていた。


 シュゼットが首だけ廊下に出して呼びかけると、リックはきょとんとした表情を浮かべたあと、恥ずかしそうに顔を赤らめて、小走りにシュゼットのいる部屋へ入ってきた。


「同室でかまいませんか?」


「ええ、一緒の部屋でいいわ」


 シュゼットは室内を見まわした。それなりの広さで、戸棚が壁に備えつけられていた。部屋の中央にはテーブルとイスがあり、奥には大きなベッドがあった。


 ふたりで寝るには十分すぎるほどの広さだ。


 天窓のようなものはなく、地下であるため部屋全体は暗い。光源は隊長格の男が持っているランタンだけで、床や壁にシュゼットたちの影が濃く伸びていた。


「では、あとで世話係のものが来ますので、ゆっくりとおくつろぎ下さい。食事はどうされます?」


「今は――午後五時過ぎか」


 シュゼットは懐中時計を取り出して見た。


「お願いできる? あ、この子はフェーレースだけあって、たくさん食べるから」


 シュゼットはリックの肩に手を置いた。


「承知しました。では、腕によりをかけて作りましょう」


 男はランタンをテーブルのうえに置くと、そのまま出て行った。足をすべらせたり、壁に頭をぶつけたりする音は当然ながら聞こえてこない。


 シュゼットはベッドに腰かけると、立ったまま部屋を見まわしているリックに目を向けた。


「座ったら? それとも食事が来るまで一眠りする?」


「僕は平気だよ。シュゼットこそ休まなくていいの?」


「今回はあなたがいるから、だいぶ楽をさせてもらったわ。少なくとも夕食までは起きているつもり」


 んー、とシュゼットは大きく伸びをした。


「楽って……そんなに普段と違ったの?」


「本来なら、下山するだけで丸一日はつぶれるのよ? 高山病や凍死、変異種……そういうのをどうにかするために、常時魔術を展開させなきゃいけないから神経を使うし」


「途中で魔力が尽きたら?」


「死ぬわね。といっても、魔女と違って人間は光石を媒体に魔術を使ってるから、魔力切れなんてまず起こらないけどね」


「そうなの?」


「知らなかったかしら? 自前の魔力を消費し続けなければ魔術が使えない魔女と違って、人間は光石さえあれば半永久的に魔術が使えるの。もちろん疲労はするから、結局は休息をとらないといけないのだけれど」


「でも、疲れをとる魔術もあるんだよね?」


「一応ね。ただ、そういうのを多用してると反動が怖いわよ? 魔術で回復するから寝なくても平気だー、なんて思っていたら、あるときふっと意識がなくなって死ぬ……ということが実際に起きるからね」


 え……とリックは口をあんぐりと開けた。


「魔術は万能じゃないわ。疲労がとれるといっても完璧じゃないし、どうしたって魔術じゃ取りのぞけない『疲れ』っていうのがあるのよ。で、集中力が切れたりすると、えらい目に遭う……と」


 リックは神妙な顔でシュゼットを見た。


「今回は昼過ぎに着いて、日が沈む前にクニークルスの里まで来られたわ。普段からすれば、信じられないほど楽をさせてもらってるの。しかも、わたしはほとんどリックに運ばれてるだけだったしね」


 ふふっ、と笑ってシュゼットはリックの頭を撫でた。腰に手をまわして、シュゼットはリックを自分の膝のうえに載せて胸に抱いた。


 そのほうが撫でやすく、なによりリックのあたたかい体温が感じられて心地よかったのだ。


「そ、そうなんだ……」


 リックは目を閉じて、されるがままに頭を撫でられていた。気持ちよさそうにしている。そのとき、遠慮がちなノックの音が響いた。


 どうぞ、と応じると、え! という意外そうな声が廊下から聞こえた。


 シュゼットが怪訝な顔をしていると、やがて遠慮がちに扉が開け放たれて、うさみみが見えた。先ほど会った髪の長いクニークルスの女だった。


 彼女は顔だけ出して、そっとうかがうように室内に目を向けている。


「どうかしたのかしら?」


「いえ、その――入ってもよろしいのかと……」


 髪の長い女は神妙な顔でシュゼットを見つめた。


「食事を持ってきてくれたんでしょう? かまわないわ」


 おいしそうな匂いが廊下からただよってきている。食事が来たのだとわかって、リックもそわそわしていた。しっぽがまっすぐに伸びている。


「他人に見られても、あまり気にされないんですね」


 髪の長い女は感心した様子で台車を押しながら入ってきた。テーブルのうえに手際よく料理を並べていく。飲み物を置こうとした際、リックのじっと見つめる視線に気づいて、彼女は微苦笑を浮かべて角杯を渡した。


 リックはおいしそうに渡された飲み物を口にする。甘い香りがした。果汁をしぼったものだろう。


「他人に見られても……って、何か変かしら?」


「あ、いえ、別に悪い意味で言っているわけではないんです。気に障ったのでしたらすみません。ただ、ちょっとうらやましく思ってしまって……」


 髪の長い女は気恥ずかしそうに、


「私はその……やっぱり人が見ている前で恋人と抱き合う勇気はなくて」


 と言った――瞬間に果汁を飲んでいたリックが思い切りむせた。


「だ、大丈夫ですか?」


 慌てた女はタオルを手にリックに駆け寄った。


「へ、平気……」


 けほけほと何度か咳き込みはしたものの、すぐに治まった。


「そ、それより恋人って……」


 髪の長い女は不思議そうに首をかしげた。


「恋人じゃないんですか? 人間は先祖返りしないはずですし、ご姉弟じゃないでしょう?」


「違うけど……」


「じゃあやっぱり恋人同士――!」


「それも違う……」


 リックは顔を赤くして小さくなった。


「そうなんですか?」


「そ、そうなんです」


 リックは顔をそらして答えた。


 髪の長い女はしばらく考える素振りを見せていたが、やがて思考を放棄したらしく、苦笑いで台車を引いて出て行った。去り際に、


「おかわりをご所望でしたら、すぐにお申し付けください」


 と言ってから叮嚀に扉を閉めた。ランタンの発する燃える音だけが、しんと静まり返った部屋に響いている。ふたりとも黙っていた。


「わたしたち、恋人同士に見えるらしいわね」


 シュゼットが言った。


「あまり意識していなかったけれど、地上の民って早婚なのよね。ふたりで旅をしていたら、確かにそういうふうに思われて当然なのかしら?」


「あの……ご、誤解、誤解は解いたほうがいいんじゃ……」


「どうせ明日には出て行くのだし、別にいいんじゃないかしら? 勘違いしたままでも。なんなら勘違いじゃなくて、事実にしてしまっても問題ないでしょうし」


「……あの、何言ってるの?」


「やっぱりロゼールのことが好きなの?」


 訊いた途端にリックの持っていた角杯が大きく揺れて、なかの液体がこぼれそうになった。リックは慌てて角杯を固定し、ほっと息をついた。


 それから心を落ち着けるようにゆっくりと果汁を飲み干した。


「そりゃ家族なんだから好きだよ。でも、なんて言うか、その」


「恋人にするという意味での好きとは違うと。じゃあ、わたしは?」


 リックの猫耳を優しく撫でながらシュゼットは訊いた。


「嫌いじゃないし、感謝もしてるし、美人だし、胸も大き――じゃなくて、とにかく好きか嫌いかで言ったら好きだけど……」


「だけど?」


 シュゼットはリックの頭のうえに自分の頬を置いた。目の前の猫耳が何かを探るように動いた。


「……ちょっと待ってよ。なんで急にそんなことを訊くのさ?」


 シュゼットはすぐには答えなかった。彼女はしばらく黙ったあと、ため息をついた。


「ちょっとした感傷よ。わたしは、あまり頼りにならないのかしらね?」


「どうしてそんなふうに思うの?」


「単純に、あなたの力を借りている場面が多いからよ。下山のときもそうだったし――頼りがいのない人間のように感じられてるんじゃないかと、ふと思ったの」


「そんなことないよ。シュゼットがいなかったら、僕は気流の境界線を突破できなかった。今だってそうだ。こうやってクニークルスの里を経由しながら移動すればいいなんて、今日初めて知ったんだ。僕は何も知らないんだよ。地上をどう旅すればいいのか、何ひとつわからない。シュゼットにはずっと頼りっぱなしだ」


 リックは真摯にそう言ってくれた。


「だから、どうしてシュゼットがそんなふうに思ったのか、僕にはまるで理解できない。僕が役立てることなんて、せいぜいシュゼットの足になることくらいじゃないか。しかもあまり乗り心地のよくない乗り物だ。申しわけないくらいだよ」


「わたしは、結構気に入ってるわ」


 シュゼットはぎゅっとリックの体を抱きしめた。


「本当に、どうかしたの? 僕にできることは、ある?」


「なんでもないわ」

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