第四章 旅路2
「前に見たのと違うんだけど……」
「そりゃ前のは世界地図だもの。これはサーブリー大陸の地図よ」
シュゼットはほほえんで、地図の一点を指さした。
「わたしたちの現在地がここよ。サーブリー大陸北西部にあるドヴォー地方。目的のリンデル地方は南――より正確に言えば、南南西の方角。直線距離にして、だいたい二七〇〇ウィア(およそ二三三九キロ)ほど離れた場所にあるわ」
指先を南南西の方角へ移動させ、リンデル地方を指さした。
「とりあえず、ここまで行くわけだけど――一応ルートとしては」
と言いながらシュゼットは、またかばんのなかへ手を突っ込んだ。地図を四枚取り出して、サーブリー大陸が描かれた地図のうえに重ねるように置く。
「まずドヴォー地方からエイドナ地方へ入って、そこからデューバ地方、さらにバルパダ地方を通って、リンデル地方まで行くつもりでいるわ。それでいい?」
リックは神妙な顔で地図を見つめたあと、そのうちの一枚を手にとってたずねた。
「……何これ?」
「何って――それはドヴォー地方の地図よ? こっちはエイドナ地方」
シュゼットは地図を手にとってリックに見せた。続けざまに、
「これがデューバ地方で、これがバルパダ地方。ああ、もちろんリンデル地方の地図もちゃんとあるわよ? ほら、心配しないでも別に――」
かばんから取り出そうとすると、リックは慌てて止めた。
「違うよ! そうじゃなくて――地図ってこんなにいっぱいあるの!?」
「そりゃそうよ。世界地図に、各大陸の地図に、各地方の地図に……って。世界地図だけだと細かいところがわからないでしょう? 大陸の地図でもかなり大雑把だから、旅をするなら各地方の詳細な地図がどうしてもいるのよ」
「なんか……旅するって思ったより大変なんだね……」
リックは引きつった顔で地図を見つめていた。
「慣れれば便利に感じるわよ? 便利というより必需品だけど」
気を取り直してシュゼットは説明を続けた。
「とにかく、まずはドヴォー地方からエイドナ地方まで行くことになるわ。そのためのルートだけど」
と言ってシュゼットは、リックが持っていた地図を取り返して草のうえに置く。
「いったん北上することになるわ。まずはこのクニークルスの里を目指すことになる」
地方地図には赤、黄、紫、緑、青の点がいくつも描かれていた。シュゼットが指さしたのは青い点で、降下大山の北に位置する点だった。
「この印って何……?」
「それは各里の位置を示したものよ。簡単に言うと、赤がカニス、黄色がフェーレース、紫がアウィス、緑がカペルで、青がクニークルスの里を意味しているわ。わたしたちは基本的に、この青い点を線でつなぐように移動することになる」
そう言ってシュゼットは、青い点をなぞるようにして指先を動かしていった。
いったん北に向かった人差し指は、すぐに南にある青い点に通るようにして動き、エイドナ地方のほうまで移動した。
そこからシュゼットは新しい――エイドナ地方の地図へ指先を移し、同じように青い点をなぞって動かしていく。そうしてデューバ地方、バルパダ地方を経て、シュゼットの指先はリンデル地方までたどり着いた。
「とまぁこういう道筋で旅する予定だけど……質問はあるかしら?」
「なんで、クニークルスの里ばっかり? フェーレースはダメなの?」
「ダメとは言わないけれど――基本的にあんまり関わりがないのよ。フェーレースとカニスは狩猟民族で好戦的ってされているし、カニスにいたっては排他的だ、なんて噂もあるくらいで……アウィスは接点が薄いのよね。魚を捕って暮らしてる種族で、内陸部から長距離飛行で海まで一気に行くものだから、陸地を旅する空挺手とは出会う機会がないというか――まぁ大陸から離れた島に行きたいって空挺手は、アウィスに頼んで連れて行ってもらってるみたいだけど」
「……カペルは?」
「人間や魔女には劣るけど、地上の民で唯一魔術を得意とする種族だから、基本的に人間や魔女はすごく尊敬されるのよね。特に気流の境界線を突破して地上まで来る空挺手は、みんな凄腕だから、会うと丁重にもてなしてくれるわ」
リックが首をかしげた。
「もてなしてくれるならいいんじゃないの?」
「そのかわり、魔術について『あれを教えてくれ』『これを実演してみせてくれ』『我々の作ったこの宝器の出来はどんなもんでしょう?』とか質問攻めに遭うのよ? 最初はいい気がするけれど、だんだん鬱陶しくなってくるわ」
「行ったことあるんだ?」
「出来心だったのよ。昔、ちょっとした好奇心で里をたずねてみたら『まだ若いのに地上に来るなんてすさまじい腕前だ!』とか変なふうに感心されちゃって、食事のたびに各家をたらいまわしにされたり、狩りに連れて行かれて『ぜひ魔術のご披露を!』とか言われたり、挙句の果てに『どうでしょう、こちらの男など婿にちょうどいいのでは?』とか結婚を勧められたり……三日で逃げ出したわ」
「滞在三日で結婚を勧められたの?」
「向こうとしては人間がいるとすごく助かるのよ。特に、わたしは
「ああ、そっか」
リックは合点が行った様子で手を打った。
「魔女じゃないから、カペルも魔術を使うときは光石が必要なんだね?」
「だからこそ、あの手この手で引き留めようとしてくるの。あの一件で、さすがのわたしも反省してね、先輩方の言うとおり、クニークルスの里以外には極力近づかないほうがいいと理解したのよ、実体験としてね」
「……じゃあ、なんでクニークルスだけは安全なの?」
どこか納得の行かなそうな顔でリックは訊いた。
「まず種族全体が穏やかで争いを嫌っているということ――いえ、正確に言うなら戦いそのものを怖がっている感じかしらね。臆病なのよ、種族全体が……。変異種と戦うことを生業にするクニークルスもいるけれど、彼らだって積極的に変異種を狩ろうとはしないし、戦うときも遠距離から弓矢を撃って、近づかれるとすぐに逃げてしまうわ」
その気になれば、格闘戦をやってもフェーレース並みの戦闘力を発揮するでしょうにね、と呆れたようにシュゼットは言った。リックが戸惑った顔で、
「確か……クニークルスって、肉体的には地上で一番強いんだよね?」
「そうよ。フェーレースの怪力と駿足、カニスの持久力の両方を併せ持っている種族だもの。弱いわけがないわ」
「なのに――臆病なの?」
「臆病というと聞こえが悪いけれど……別にそれがダメだというわけではないのよ? むしろわたしたちからすれば、とても好ましい性質だわ。臆病だからこそクニークルスは最悪の事態を常に想定して動くの。危険が迫ったときのために逃げる準備を怠らないし、他種族と対立したり、敵対したりすることもない。常に友好的な関係を築いてる。空挺手だって、そのおかげで活動できるわけだからね。実際、ありがたいことよ? クニークルスがいなかったら、わたしたちの旅路だって、もっと厳しいものになっていたはずだわ」
「そういうものなの……?」
リックは眉根を寄せて、釈然としない様子だ。
「実際に行ってみましょうか、クニークルスの里へ」
「行けばわかる?」
「さぁ? でも話を聞くだけよりずっと判断はしやすいと思うわよ?」
そう言ってシュゼットは笑った。
「わかったよ。僕は地上の旅に不慣れでよく知らないし、シュゼットに任せる」
リックはシュゼットを抱きかかえた。地図はドヴォー地方のものだけ残して、あとはかばんのなかに収めておく。
リックはシュゼットの指示で走った――むろん、変異種に遭遇しないよう、細心の注意を払って森を駆け抜ける。
歩きづらい低木や下生えを避けるように、リックは太い枝を足場にしながら器用に樹上を走った。リックが踏むたびに枝は弓のようにしなって、ほんのわずかに沈み、それからすぐに浮き上がる反動を利用して、木から木へと移動していく。
その感触は、抱きかかえられているシュゼットにもはっきりと伝わってきた。
普段より速度が遅いことに違和感を覚えつつ、シュゼットはリックの首に腕をまわし、いつものようにしっかりと抱きついた。
見ればリックの猫耳は頻繁に動いていて、周囲の音を探っている様子だった――下山している以上、変異種の数はそう多くないはずだったが、いったい何があったのかとシュゼットはいぶかしく思った。
不意にリックが足を止めた。木の枝に着地すると、少しばかり膝と腰を曲げて、太い幹に片手をつけて、困ったような顔でシュゼットを見た。
「どうかし――」
普通の声量でしゃべろうとしたら、リックに唇を人差し指で押さえられた。シュゼットは何度も目をしばたたかせた。彼女はリックの猫耳に唇を寄せた。
「何かあったかしら?」
ささやき声で訊いた。
「フェーレースがいる……」
リックは無表情でつぶやいた。
「大人の、男のフェーレースだ……」
「気づかれてるの?」
「わからない」
リックは首を横に振った。猫耳が顔をこすってくすぐったい。
「でも、僕たちのほうには向かってきてないよ。今のところは……。大きな動物を狩ろうとしているみたい――あ、今、仕留めたよ」
リックの猫耳が俊敏に動いた。
「近場の里のフェーレースかしらね?」
「どうするの……?」
「どうするって――気づかれないように離脱……」
言いかけたところで、ふとシュゼットはこう切り出した。
「ひょっとして、会ってみたいの?」
「ん……わかんない。僕、自分以外のフェーレースのことはよく知らないから……」
「確か、地上で狩りをしたこともあるって言ってたけれど」
「したけど――フェーレースの里には行かなかったし」
リックは小さく息をついた。
「なら、こんな森のなかで遭遇する必要もないわ」
リックは上目遣いにシュゼットを見た。安堵と不満が入り混じったような表情だった。
「クニークルスの里に行けば、フェーレースにかぎらず、いろんな種族のやつに会えるわ。話しやすそうなやつを見つけて、会話してみればいいのよ。わざわざどんなやつかわからないようなのを相手にする必要はないわ。もしかしたら、とんでもなく喧嘩っ早いフェーレースかもしれないしね」
「そだね……」
リックは沈んだ声で答えた。
「狩りを終えて、相手はこっちに気づいてる?」
「どうだろ……。獲物をかかえて――離れていったみたいだよ。さっきまでいたけど、もうどこにいるのか僕じゃわからない」
リックは顔を動かして、フェーレースがいたらしき方角へ目を向けた。
「残念?」
「……やっぱり、よくわからない。興味はあったんだけど、いざ会えるかも……ってなったら、なんだか気おくれしちゃって」
「じゃ、さっさとクニークルスの里へ行ってみましょうか? 実際にフェーレースの姿を見て、話をしてみれば、自分の気持ちも整理がつくかもしれないわ。初めて出会う同族だものね。いい出会いを期待したいわ」
「うん……」
リックはふたたび木の枝から木の枝へ飛び移りながら走り始めた。
しばらくのあいだ、樹上を滑空するように駆けた。やがて森の奥に光が見え、その先を抜けると、まばらにしか木が生えていない平原が広がっていた。
「ここから先は丸見えね」
シュゼットは方角を確認すると、リックに指示して北へ針路をとった。
浮遊島と違って道らしい道はどこにもなく、見渡すかぎりの草むらだ。舗装された街道はなく、人の足によって踏み固められた、土がむき出しの道すらない。
リックは雑草を踏みつけながら草原を走り抜けた。平坦な土地ではなく、わずかに傾斜があって、上り坂になったり下り坂になったりしていた。
そうして小さな丘のうえまで来ると、ふたりの目に広大な田畑が飛び込んできた。クニークルスの里だ。背後に目を向けると、降下大山が雄々しくそびえ立っている。降下大山は大きく、クニークルスの里からでもその姿を確認することができた。
里の敷地――小さな土塁と柵に囲まれた場所まで来たとき、遠くからうさぎの耳を生やした人物が幾人かやってきた。
クニークルスだ。
彼らが来る前から、リックは何者かが近づいてくることを察知していて、土塁のうえにちょこんと立ち、柵のまえでじっと待っていた。これはシュゼットの指示だった。
「ここはクニークルスの里だもの。人の家を訪問するときは、それなりの作法があるわ」
「家人の許可を得てから、だね」
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