第四章 旅路1
下山するうえで、もっとも危険なのは気流の境界線付近ではない。
気流の境界線がある高度九〇〇〇ブラキウム(およそ六五〇〇メートル)付近には雪が降らない。雨雲がないからだ。
境界線より上は浮遊島と同じく常春の世界と言ってよいが、境界線の下は極寒の世界が待っている。
油断すれば凍傷になり、運が悪いと凍死する。
無事に気流の境界線を突破しても、山から降りるまではまったく安心できないのだった。しかも少しばかり山を下るとすぐ雪が降り始める。
場合によっては猛吹雪や雪崩に巻き込まれる危険すらあった。霧によって視界がきかないことも多い。
そして、地上の山や森には当然ながら変異種がいた。
平野部や地上の民の里の近くならば安全が確保される。その里に住まうものたちの手によって変異種は駆逐されるからだ。しかし里から遠く離れた場所では、襲われる危険がぐっと上がる。
降下大山に登ろうとする地上の民はいない。登らなければならないよっぽどの理由があるなら話は別だが、そうでないなら彼らは高山になど近づかない。
しかも降下大山は気流の境界線と接しているから、うっかりしているとひどい目に合う。子供の頃から高い山に登ってはならない、と教育されるほどだ。
だから、この辺りの変異種はまったく討伐されていないはずだった。下山途中の空挺手が遭遇した変異種を倒すことはあるだろう。
だが、普通はやらない。危険だからだ。安全な平地ならばまだしも、高い山のうえは気温も低く、場合によっては吹雪や霧で自分の現在地すらわからなくなる。
戦闘をするには不向きな場所なのだ。ゆえに空挺手は、できるだけ変異種と遭遇しないよう慎重に降りていく。シュゼットも例外ではない。
彼女は探知の魔術を使って、自分たちに近づく変異種がいないことを確認しながら――いた場合は接触しないように遠ざかって――移動した。
「これ、僕が駆け下りたほうが早いんじゃない? 変異種と遭遇しないようにすればいいんだよね?」
そこまで言われて、はたとシュゼットは足を止めた。
「そういえば……リックって、建物のなかの人の数や位置を把握できるほど聴覚が鋭いのよね。もしかしなくても、変異種の位置や数、ちゃんとわかってたりする?」
リックはいぶかしげな顔でうなずいた。それから雪景色に覆われたあちこちを指さして、
「あっちに大きいのが二体、距離はここから六〇〇。一緒にはいなくて、八十ほど離れてる。それから反対方向に一体、あんまり大きくないかな。足音から察すると虎くらいの体長? 七一〇くらいの距離。あと――」
「ええ、もう十分だわ」
シュゼットは呆れ半分にリックを見た。
「わたしの魔術よりよっぽど広範囲じゃないの。いつものくせでついついやっちゃってたけど、これなら全部リックに任せてしまったほうがよさそうね」
「降りるだけでいいの? 倒したほうが……」
「慈善事業じゃあるまいし、依頼もないのに変異種退治なんてするわけないでしょう? 第一、こんなところに地上の民はやって来ないわよ」
「そうじゃなくて――空挺手は使うんでしょ? この山……」
「逆に言えば、空挺手しか使わないってことよ?」
「ん、でも、ほかの人が来たときに困るんじゃ――」
「困りゃしないわよ。空挺手は変異種と遭遇しないように細心の注意を払って下山するし、だいたい倒したところで定期的に討伐し続けないと意味がないし」
「そうなの?」
「変異種は自然発生するのよ。数を減らさないと勝手に増えていく。降下大山でも同じことだわ。もっとも、降下大山の場合は、気流の境界線より上に行こうとして自滅する変異種もいるから、結局は数の増減なんてないんだけど」
やはり人間を襲いたがるのか、変異種は気流の境界線に無謀にも突っ込んで自滅することがある。
強大な力を誇る変異種だと即死はしないが、それでも結構な傷を負うようで、この怪我がもとで命を落とす場合もあるらしいのだ。
むろん、弱い個体ならば即死する。だから降下大山の変異種は、数が常に一定に保たれているのだった。
「過剰に増えないかぎり、放っておいて問題ないわ。現にわたしだって、こうして変異種をよけながら下山することはできるわけだし、なにより目的を見失わないで、リック」
「え?」
リックは不思議そうに首をかしげた。
「わたしたちの目的は、ロゼールに呪いをかけた呪言種を倒すこと、でしょ? わざわざこんなところで変異種の相手をしているヒマなんてないわ。それに万が一、強力な呪言種に遭遇しちゃったらどうするの? 今、わたしたちがやられてしまったら、誰もロゼールを助けられなくなるのよ? わかってる?」
「それは――わかってるつもりだけど……」
ふふっとシュゼットは笑って、
「前から思ってけど、リックってお人好しよね」
シュゼットはリックの頭をそっと撫でた。
「……僕はただ、変異種は倒しておいたほうがみんな助かるんじゃないかなぁ、って思っただけで」
「そう考えて、しかも実行に移そうとする時点で相当なお人好しよ? あんまり他人の困り事に首を突っ込もうとすると、いいように利用されて、ロクな目に遭わないわ」
「シュゼットも十分、僕らの困り事に首を突っ込んでる気がするんだけど……」
「わたしの場合は報酬があるからいいの! ちゃんと危険や労力に見合った対価が手に入るなら、むしろ積極的に首を突っ込むべきだわ――もちろん、自分の安全はきちんと確保したうえでね。あの世にお金は持っていけないから」
シュゼットは小さく笑った。
「わかった。よく考える……」
リックはまじめな顔でうなずいた。根が素直なのだろう、シュゼットの忠告を真剣に受け入れているようだった。
「さて、それじゃ今後の話をしましょう。まず、リックは変異種の位置や数がわかる。そしてわたしを抱きかかえて、一気に山を駆け下りることができる。場所によっては進んだ先が崖だったり、雪崩が起きそうな場所だったりすることもあるはずだけど?」
「そういうのもわかると思うよ。多少、慎重に進めば」
「わかったわ。お願いしましょう。いい? 変異種との遭遇は絶対に避けて、とにかく下に――そうね、標高三〇〇〇ブラキウム(およそ二一六六メートル)より下まで行けば、ひとまず安心かしらね」
「何か変わるの?」
「単に高山病になるのがそのくらいの高さって言われているからよ。それに今の季節なら、気温も氷点下ではなくなっているでしょうし」
「高いほど冷える?」
「一概には言えないけれど、だいたいはね。とにかく下に行けば行くほど気温も上がるし、地上の民の里にも近づくわ。里に近づくってことは……」
「変異種も定期的に討伐されているから数が少ない、だね?」
「正解」
シュゼットは満足げにうなずいた。
「じゃ、行くわよ。気をつけてね?」
「大丈夫。任せて」
リックはシュゼットを抱え上げると、雪道を駆け出した。
現在地は雪こそ降っていないが、辺り一面は真っ白で、少しばかり油断すると足を滑らして転んでしまう。
シュゼットは転倒防止のために魔術を常時展開させて降りていたのだが、リックのほうは雪道だろうが特に支障なく走れてしまうようだった。
「転ばないように、これでもかなり慎重に走ってるんだけどね」
リックはぼやくように答えた。
「じゃあ、やっぱり転倒防止の魔術を使ったほうがいいのかしら?」
「あったほうが楽に降りられそうとは思うけど――大丈夫なの? 結構派手に
リックはシュゼットの手をながめた。すでに何度もかばんに手を伸ばして、新しい白光石を取り出しては下山のためにありとあらゆる魔術を使っていた。
「このくらいの消費量なら許容範囲よ。それに白光石や
「地上で光石を補充するのって珍しくないの?」
「普通は上である程度作っておくものだけれど――でも、地上での滞在期間が長くなれば、必然的に自作する必要が出てくるし、赤光石はともかく、白光石までなら空挺手でも作るのは難しくないのよ。というより、白光石を楽に作れることが空挺手の最低条件だわ。もっとも、赤光石まで行くと自力じゃ無理だって空挺手も出てくるし、自作しようにも成功率が低いからって理由で、わざわざ浮遊島に補充しに行くやつらも多いけどね。でも、空挺手の降り方は見たでしょ?」
抱きかかえられたまま、シュゼットは山の頂へ目を向けた。
「空挺手にとって、一番危険なのは地上にいることじゃないわ。少なくともクニークルスの里にいるかぎり、安全が保障されているようなものだし、浮遊島に戻らず地上で暮らし続ける人間もいる。空挺手にとって一番危険なのは、気流の境界線を突破するときと、下山するときなのよ。あるいは上に戻るために登るときね。だから――」
「地上と浮遊島を行き来する回数は、できるだけ少なくする……?」
「そのとおりよ。空挺手だって危ない橋は渡りたくない。光石の補充もできるだけ自前で済ませようとするし、上に戻るのも、もう一度地上へ行くのも、しっかり準備をととのえて万全を期すわ。必要とあらば、地上で光石を作るぐらい、いくらでもやるの」
「じゃ、別にがんがん使っちゃっても大丈夫なんだ?」
「無駄遣いはしたくないけれど、これは必要な消費だもの。もったいないからって命と引き換えにはできないし、白光石を砕きまくることで安全が確保されるなら、わたしは容赦なく使いまくるわよ?」
シュゼットは小首をかしげて笑った。
「わかった。じゃ、安全確保のために転倒防止の魔術をよろしく」
「了解。しっかり頼むわよ」
シュゼットはリックの体に魔術をかけた。
一時的にバランス感覚を強靭にする魔術で、これをかけられたリックは普段と大差ないような速度で走り始めた。雪を踏みしめる音が小気味よく辺りに響いた。
リックは一定の速度では走らず、ときどき減速しては進む方向を変えた。何も言わなかったが、おそらく変異種がいたのだろう。
リックに抱きかかえられて、無事に下山するまでのあいだ、ふたりは一度も変異種と遭遇しなかった。
降下大山の下は森になっていたが、ふたりは初め、自分たちが無事に下山できたとしばらく気づかなかった。なにせ、下に行けば行くほど森と山との区別がつきづらくなっていくのだから。
五合目を過ぎた辺りから、徐々に雪の量が少なくなっていき、三合目を下る頃にはほとんど見られなくなった。
上のほうに生えていた背の低い高山植物も消え、かわりに大きな木が目につくようになる。
一合目を下る頃には、普通の森と変わらない景色が目の前に広がっていた。道は下り坂だったが、場所によってはしばらく進んでも平板な道(といっても獣道すらないが)が続いていた。
しかもシュゼットは高度を確認していなかった。自分たちが今、山のどの辺りにいるのか、さっぱりわかっていなかったのである。
ただ、下り坂がなくなってからしばらく進んでも、地面が傾斜しないことに気づき、ふと思い立って高度を測ってみた。
それで、ようやくふたりは地上にやってきたのだと実感できたのだ。降りることに夢中でまったく気づかなかったが、いつの間にか気温も春にふさわしいものに変わっていた。
「ひとまず安心ね……まだ油断はできないけど」
シュゼットは大きな木が生えている森のなかでいったん下ろしてもらうと、かばんから地図を取り出して草のうえに広げた。
ちょうど背の低い雑草が生えていて、緑の絨毯のようだった。リックは広げられた地図をのぞき込むと、いぶかしげな顔をした。
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