第三章 降下大山2
「へぇ。わたしの知らないあいだに大事件が起きていたみたいね」
「ああ、まったく物騒な話だよ。うちの泊まり客をぶちのめしてロープで縛り上げようとするなんざ、とんでもない話さ。警邏隊は、ひとまず貧民街を中心に探すと言っていたよ。今日はもう遅いから、やられた空挺手の話を聞くだけにとどめて、本格的な捜索は明日以降に開始すると言っていたな」
「結構大規模なものになりそうなの?」
「ああ、どうやら魔術協会はその子供が地上の民じゃないかと疑っているらしくてな。それなりに大規模なものになりそうだ。ここら辺一帯はもちろんのこと、周辺の町や村にも追っ手がかかるかもしれん」
宿の主人は、あごを撫でながら言った。
「もっとも、犯人は食料や野営道具を買って、しばらくは森や山の奥深くに身をひそめているだろうから、人のいる場所を捜しても無駄だろうな。少なくとも俺が犯人ならそうするよ。さすがに警邏隊の連中も、すぐさま森や山にまで捜索の手を広げることはない。しばらくは安全なはずだからな。そして十日後に地上へ降りてしまえば、無事に逃げきれるだろう。ところで――実は食材が結構あまってるんだが、買っていかないかい? ここを引き払うってことは、別の町へ行く予定なんだろう?」
「そうね。十日分ほどお願いしようかしら? 銀貨二枚で足りる?」
「急な出立で大変だろうからな。軽く値引きして銀貨二枚ちょうどにしとこう。なんなら現物で支払ってくれてもいいぜ?
「すぐに
シュゼットは銀貨二枚を置いた。
「ま、それもそうか。下に降りるなら必須だもんな」
宿の主人はちらりと店の奥へ目を向けた。すると、先ほどまでモップをかけていた従業員が小さなかばんを持ってやって来た。
どうぞ、と言ってシュゼットに手渡した。
「確かに十日分、わたしとこの子の分くらいはありそうね」
シュゼットはかばんから大量のパンや野菜や肉を取り出して、確認しながら言った。
「でもこれ、宝器でしょう? これのお代はいいのかしら? 食材のほうも、生のままじゃないわよね、これ。明らかに手が加えられているわ」
かばんの容量に対して、なかに入っている食材があまりに多すぎたのだ。間違いなく魔術で加工されたかばん――いわゆる宝器だ。内側の空間を広げてあるのだろう。
だからこそ、たくさんのものを詰め込める。食材のほうも、腐食防止の魔術がかけられているようだった。かすかだが、魔力の残滓がある。
「そこらへんは俺からの餞別とでも思ってくれ。幸運を祈ってるよ」
宿の主人は、口元に優しげな笑みを浮かべて手を振った。
「上にいるのがあなたみたいな人ばかりだったら、わたしも下に行こうなんて思わなかったかもね。ありがたく頂戴させてもらいましょう」
シュゼットは食材をかばんのなかへ詰め込むと、自分の荷物を取りに二階まで行き、それからリックをともなって空挺宿を出て行った。去り際にシュゼットは手を振って別れの挨拶をした。
歩きながら首だけ動かして背後を見ると、従業員はシュゼットたちにむかって頭を下げ、宿の主人は微苦笑でゆっくりと手を左右に振っていた。
宿から出ると、二人は急いで都市を離れた。
来たときと同じように人目を避けて、誰にも見られないよう、自分たちが今ここにいることを、そして都市から離れようとしていることを、誰にも気取られないように注意深く移動した。
街灯の明かりさえ届かない暗がりを歩いているので、シュゼットは夜目がきいて、気配を読むことにも長けるリックに先導を任せた。
都市から出ると、シュゼットはリックに抱きかかえられて高速で移動し始めた。草原を突っ切って、元いた森のほうへと走っていく。
ただし、同じ場所に魔女の家を建てるような真似はしなかった。シュゼットは森に入って姿を消したら、今度はまったく別の方向へ移動しなさい、とリックに指示を出していたのだ。
「どうして?」
問うリックに、シュゼットはほほえみながら答えた。
「都市のほうからわたしたちを監視している奴がいるかもしれないからよ。自分でも神経質だとは思うけどね。これから、わたしたちは少なくとも十日間は身を隠さなきゃならないわ。何かの間違いで浮遊島が進路を変えたら、もっと長い期間になるかもしれない……魔術協会の連中に居場所がバレるのは大問題なのよ」
リックの話によれば、魔女の夜会もロゼールを狙っている。一緒にいるのがリックだとわかれば、魔女の騎士がすっ飛んでやってくるだろう。
さすがに警邏隊と魔女の騎士の両方を相手にするのは面倒だった。
「とりあえず、食料についてはあの宿で補充できたからいいとして――ああ、一応言っておくと、このかばんそのものに追跡魔術のたぐいはかけられていないわ。食料のほうもね。そこは調べといたから安心して」
「食料なら買わなくても、魔女の家にいっぱいあるけど……」
「あら、そうだった? まぁでも、あって困るものでもないし、別にいいわ。とにかく、いったん都市の南にある森に入って、そこから森のなかを迂回しつつ北のほうへ向かうわよ。適当な山か森を見つけたら、ひとまずそこに腰を落ち着けるわ」
「ずっと同じところで過ごすの?」
「もちろん、定期的に場所を変えるわ。情報もほしいし、どっちにせよ浮遊島の進路を確認するために、一度は適当な町か村に顔を出さなきゃならない。おそらく警戒されてるでしょうから――付け焼き刃だけど、変装したうえで、あえて目的地とは反対方向の村へ顔を出してみましょうか。これでも見つかる可能性は高いけどね」
シュゼットはため息をついた。
「とにかく急ぐわよ。ここで捕まってしまったら水の泡だし」
現在地がサーブリー大陸の上空だったなら、あえて魔術協会に顔を出すというのもひとつの手ではあった。
自分から会いに行き、魔女の夜会に連絡される前に交渉して、うまくリックと自分が地上へ降りられるよう手はずを整える。
しかし、現在地はイェルニック大陸上空だ。
ここで浮遊島から叩き出されても、サーブリー大陸へは行けない――いや、行こうと思えば行けるが、海を渡る必要があった。
そのためには沿岸部まで行って、アウィスと交渉しなければならないが、そんなことをやっていたら時間がいくらあっても足りない。
もちろんロゼールの喰らった呪術の性質を考えれば、急ぐ理由はない。
しかしリックは時間がかかるのを嫌がるだろうし、いきなり体調が急変しないとも限らない。呪言種の使う呪いは未解明な部分が多く、全容を把握できていないのが実情だ。
不安要素はできるだけ早く排除したい。
リックは言われたとおり、シュゼットを抱きかかえたまま森に入り、しばらく走ったあと、急に方向転換して西へ向かった。そのまま森に沿って浮遊都市の北側へ回りこむようにして進んでいく。
森は途中で途切れていたが、リックが走っているルートと浮遊都市のあいだには丘があって、都市の建物は見えなかった。
リックは街道から離れた草原を突っ切り、浮遊都市の北にある森へ、そしてその先にある小さな山へと足を踏み入れた。
シュゼットは抱きかかえられたまま、じっと目を閉じていた。草原にいるときはまだしも、森や山のなかに入れば月の光は届かない。明かりもないので、目を開けていても何も見えないのだった。
シュゼットはまぶたを閉じたまま、目的地に到着するのを待った。
「この辺でいい?」
急に立ち止まったリックが言った。シュゼットは目を開けるが、まわりは真っ暗で何も見えなかった。外なのか、洞窟の中なのかさえ区別がつかない。
「近くに生き物の気配とか、する?」
「野生動物ならいるよ。うさぎとか鳥とかキツネとか……」
「人がいないならなんでもいいわ」
「じゃ、ひとまずここで」
リックはまた魔女の家を出した。
目の前に巨大な物体が現れたことを肌で感じるが、シュゼットの目では、何が起きているのかわからなかった。
また手を引かれて、シュゼットはリックと一緒に魔女の家に入り、そうして顔をしかめた。目の前が急に明るくなったからだ。
「この明かり……外からは見えないのね」
「内側から外は照らされてるけどね。魔女はフェーレースと違って夜目がきかないから」
「ああ、外敵対策の一種でもあるのね」
「うん。そうだって聞いたよ」
さすがに長距離を走って疲れたのか、リックは汗をかいていた。呼吸も少しだけだが荒くなっていた。
フェーレースは圧倒的な怪力と駿足を誇る代わりに、持久力に乏しいとされている。人間よりははるかに上だが、カニスやクニークルスに比べれば低いのだ。
呪言種との戦いも、短期決戦を前提に考えておいたほうがよさそうだ。
「どうかした?」
「いえ、それよりもひとつ気になってることがあるんだけど」
「何?」
「確か、魔女の家って魔女の集会場とつながってるんじゃなかった? 連絡手段もあったはずだけど、ここにいて魔女の夜会から見つかる可能性はないのかしら?」
リックはシュゼットを見つめたあと、ついて来て、と言って歩き出した。シュゼットが怪訝な顔で、リックの小さな背中を見ながら歩いていくと、やがて一階の台所に着いた。
勝手口として造られていたであろう扉が、無残に破壊されていた。扉を開けなければ見えないはずの裏庭の光景が、丸見えになっている。
「魔女の集会場にはここから行くんだ」
「扉を破壊すれば、行くことができなくなるの?」
「直せばまた行けるようになるよ。でもここが壊れているかぎりは無理なんだ。向こうからこっちへ来ることも、こっちから向こうへ行くこともできない。魔女新聞だって届かないし、電話もいっさい通じないんだ」
リックは扉の脇にあった糸電話を手にとって、シュゼットに示した。糸は扉の、本来なら鍵穴があるであろう場所につながっていた。
「壊しただけで通じなくなるなんて便利なものね」
シュゼットはくすりと笑った。
「人間も、同じようなものを作ったって聞いたけど」
「ええ、作ったわよ、魔術協会が。異空間に評議会のための会議場を作って、浮遊島同士をつなげて、自由に行き来ができるようにしようって。でも維持するのがあまりにも大変で、結局は各浮遊島の首都である都市をつなぐだけで終わっちゃってたのよね、確か」
本来の計画では首都だけでなく、それぞれの浮遊島にある町や村もひっくるめて、すべての集落をこの異空間につなげる予定だった。
しかし実際にやってみると、労力と対価がまったく見合っておらず、計画は頓挫してしまったと聞いている。
「一応、今でも魔術協会本部だけはちゃんとつなげてあって、定期的に連絡を取り合っている……って話なんだけど、実際はどうなのかしらね」
「それって、魔術協会が嘘をついてるってこと? なんのために?」
「一番わかりやすい動機は『魔女への対抗心』じゃないかしら」
シュゼットは苦笑いで、壊れた扉を見た。
はたして、この事実を魔術協会本部は把握しているのだろうか? 当然、しているだろう。わかっているからこそ癪にさわっているに違いない。
人間と魔女は似た種族だ。シュゼットからすると、あくまでも似ているだけであって同じではない。むしろまったくの別種族だと考えているのだが、そうではないと思う人間も多くいるのだ。
特に魔術協会に所属するような人間は、たいてい魔女と人間の共通点を挙げて、両者は同一の種族だと馬鹿げた主張をする。
そういったものたちに感化されて、これといって魔女に興味のない人間までもが悪影響を受ける。魔術協会の見解は正しいのだろうとなんとなく信じてしまい、人間と魔女は同じ種族なのだと考える。
だからこそ大多数の人間は――なかでも魔術協会本部にいるような精鋭は、魔女に対して強烈な対抗心を抱くのだ。
魔女よりも自分たちのほうが優れているはずだ。そう信じて疑わない。
シュゼットが関わった範囲でも、そのように主張する魔導師は多くいたし、魔女を侮るような発言を聞くことも珍しくなかった。
特に魔女の家は、魔女にしか使えない秘術だったから、なおのこと彼らは躍起になって再現しようとしたのだろう。同じ魔術である以上、解析すれば自分たちにも使用可能であると大勢の魔術師たちは主張した。
そして実際に、一時的にとはいえ各浮遊島をつなげることができたのだ。
結果、貨幣の統一や技術交流などの様々な利点をもたらしたが――所詮は付け焼き刃だ。計画はすぐに破棄された。
もちろん、維持するのがあまりにも大変で……などという発表を協会側は行なわなかった。彼らの言い分はこうだ、技術交流などの役割を終えたので規模を縮小する、と。
当然ながら、この言葉を信じるものはいなかった。
協会側でさえ、騙し通せるとは思っていなかっただろう。なにせ馬鹿みたいな量の赤光石を消費しまくっていたのだから。
異空間を維持し、各浮遊島をつなぐ扉を保ち続けるには、あまりにも膨大なコストがかかることは誰の目から見ても明らかだった。
だからこそ協会側の発表は、見栄や面子を重視したもので、本心は別にあると誰もが理解していたのだ――ほとんどの人間は表向き、それを認めはしなかったが。
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