episode7 体調不良

 月曜日の放課後、生徒会室に向かうと、チヒロが一人で文化祭の劇の準備をしていた。昨日の話を思い出して、気まずい感じがする。

「お、おつかれ、チヒロ。なにか手伝おうか」

「大丈夫。これくらいなら一人でも出来る」

「そ、そう」

 俺はぎこちなく席に座り、作業を始めようとする。俺がパソコンを開こうとした瞬間、チヒロは顔を上げた。

「それよりも会長のお見舞いにでも行ってきてあげたら?」

「お見舞い?」

「知らないの? 会長、風邪で寝込んでるらしいよ。まあただの風邪なら、文化祭までには治ると思うけど」

 俺はパソコンから手を離す。そういえば、ヒマリさんのお母さんはシングルマザーじゃなかったか? だとしたら、もしかすると、ヒマリさんは家に一人でいるかもしれない。俺はリュックを背負うと、急いで生徒会室を出ようとする。

「チヒロ、ごめん。俺、行ってくるよ」

 チヒロは作業をしながら手をヒラヒラさせた。


 廊下ですれ違ったシオンに訊ねたところ、今日、生徒会室には早川さんしかいないらしい。僕は絶好のタイミングを逃すまいと菓子折り片手に生徒会室に向かった。扉を開けると、やはり早川さんが一人で黙々と作業をしている。僕が口を開こうとすると、ダンボールをカッターで切断しながらたずねた。

「今日も事情聴取ですか?」

 友人に誘拐予告の話を聞いたのだろうか。僕は菓子折りを机に置き、シオンのものと思われる椅子に座った。

「いや、今日は謝りに来たんだ。君を疑ってしまったことをね」

 早川さんは作業の手を止めずに会話を続ける。

「疑って当然です。動機は十分にありますから。それにしても、どうして私が犯人じゃないと思ったんですか?」

「役さ」

「役?」

 僕は机の上に劇の台本を出す。昨日ヒマリから借りたのだ。

「君の役は魔女だ。つまり、ヒマリをシオンのもとに向かわせる役。シオンに惚れられたヒマリに恨みがあるなら、こんな役は引き受けないよ」

「……たまたまです」

「君が台本を書いたのに?」

「……」

 黙り込む早川さんのもとに行き、彼女の手伝いをする。彼女は少し驚いた表情で僕を見る。

「それに、劇の邪魔をしたいなら、こんなに熱心に劇の準備をしないさ」

 早川さんは数秒間うつむき黙りこむ。一つ息を吐くと、口を開いた。

「私にとっての最悪は、シオンに振られることです」

 彼女は唇を固く結んだ。目を閉じ、自分を落ち着かせようとした後、なんとか言葉を繋いだ。

「そして、それよりもっと最悪なのは、私を振ったシオンが、好きな人に振られることです」

 僕は、震える彼女の背中をさすってやった。ダンボールに、涙がにじむ。

「優しいんだね」

 僕がそう言うと、早川さんは首を振った。

「優しくなんかありません。これは、ずっと好きだった人に振られた、みじめな私の、最後の悪あがきです」

 きっと早川さんは、二人を近づけるためにあんな台本を書いたのだろう。そして今日も、シオンをヒマリのお見舞いに向かわせて、彼の背中を静かに押している。僕は声を殺して泣き続ける少女の背中をいつまでもさすってやった。


 ヒマリさんにお見舞いに行くと連絡すると、もしかしたら寝ちゃうかもしれないから、鍵は開けとくと連絡が来た。俺は走ってヒマリさんの家に行き、到着すると勢いよく玄関の扉を開ける。

「シオンです。お邪魔します」

 返事がない。寝ているのだろうか? 俺は階段を駆け上がり、ヒマリさんの部屋の扉を開ける。

「ヒマリさん、大丈夫ですか?」

「あっ」

 俺は慌てて扉を閉める。ヒマリさんはタオルで体を拭いていた。そう、ヒマリさんは完全に上半身裸だったのだ。俺は扉の前で頭を抱える。……終わった。土下座をすれば許してくれるだろうか。それとも切腹でもしない限り、顔を合わせてくれないだろうか。よし、切腹しよう。

 俺は切腹のための包丁をキッチンに取りに行こうとすると、部屋の扉が開く。前にタオルを持っているが、上には何も着ていない。俺が急いで土下座の姿勢をとると、ヒマリさんは慌てて制止する。

「いいって、そんな。それより背中拭いてくれない? 届かなくって」

 俺は恐る恐るヒマリさんの部屋に入る。ヒマリさんはベッドに座るとタオルを俺に手渡した。

「その、ヒマリさん……見えてます」

「さっきも見たでしょ。いいから、体拭いてちょうだい。汗がひどくって」

 俺はそっとヒマリさんの真っ白な背中を拭く。震える手付きで体を拭く俺に、ヒマリさんはクスっと笑った。どうやら怒ってはないらしい。

「胸、思ったより小さかったでしょ?」

「いや、その……」

 返答に窮する。こんな時、なんと答えるのが正解なのだろう。「そんなことないです」とお世辞を言うべきか、それとも「小さくてもヒマリさんは素敵です」と励ますべきか……必死に無難ぶなんな言葉を探す俺を見て、ヒマリさんはまたまたクスっと笑った。

「お姉ちゃんもこんな感じだったし、ママも小柄なほうだから、遺伝的には成長の見込みがないんだよね。もう少し大人っぽい体つきになれたらよかったんだけど、ママを恨むわけにもいかないしね」

 どうやら幼い体にコンプレックスを抱えているらしい。俺が背中を洗い終えると、ヒマリさんは俺の方を向き、少し申し訳なさそうな顔をして見せた。

「変なもの見せちゃった上に、背中まで拭かせちゃってごめんね」

 何が「ごめん」なものか。この人は時々、自分を低く見積もり過ぎることがある。いつか誰かの犠牲になって死んでしまうのではないかと、心配になってしまう。ヒマリさんはもっと自分の魅力に目を向けるべきだ。人が生きるために浴びるべき光とは、どこか遠く、遥か彼方かなたから放たれるものではない。すぐ近くに、そう、自分の胸を叩けばそこにあるものなのだ。俺は側に置いてあったパジャマと下着を押し付けながら言った。

「正直に告白すると、ヒマリさんの裸を見て、少し……いや、かなり欲情してしまいました。だから、早く服を着てください。でないと、襲ってしまいそうで」

 ヒマリさんはでダコのように真っ赤になった。慌てて後ろを向き、服を着る。着替えながら小さな声で「ありがと」と言った。


「どうぞ、食べてください」

 俺は切った林檎りんごとおかゆを小テーブルに置く。ヒマリさんは小さくうなずき、ゆっくりと食べ始めた。

「来てくれてありがとね、シオン。ママは『仕事休もうか?』って言ってくれたんだけど、見栄張って断っちゃったの。でも正直、辛かったし、寂しかった。人間って体調が悪くなると、嫌なことばっかり考えるって言うけど、本当なんだね」

 嫌なこと。きっとお姉さんのことを考えていたのだろう。俺は興味本位でヒマリさんにたずねてみた。

「ヒマリさんのお姉さんって、どんな人だったんですか?」

 ヒマリさんは、しばらく「うーん」と唸った後、一言で亡き姉を表現した。

「勝手な人」

「勝手……ですか」

 ヒマリさんは笑いながらうなずいた。

「そう、勝手な人。いつも冗談ばかり言ってて、まともなことをほとんど喋らないの。まだ私が幼かった頃、お姉ちゃんはいつも楽しいホラを吹いて私を笑わせてくれた。私が少し大きくなると、引っ込み思案な私を強引に引っ張ってあちこち連れ回した。さらに大きくなると、一緒にギターを弾いて遊んだ。もう言葉はいらなかった。私の隣には、いつもお姉ちゃんがいたの」

 ヒマリさんの話を聞いて、なんとなく、不器用な人だったんじゃないかと思った。まっすぐ生きたくても生きられない二人の姉妹は、互いに寄り添って生きてきたのだろう。そんなことを考えていると、ヒマリさんは少し顔を暗くしながら話を続けた。

「去年、お姉ちゃんは自殺した。色々なことがあって自殺したんだけど、一言で言えば、私を庇って自殺した。私はお姉ちゃんに、もっと自分勝手に生きてほしかったんだけど、よりにもよって私のために死んじゃうだもん。勝手だよ」

 ヒマリさんは怒っているような、悲しんでいるような表情で、もう一度おかゆを食べ始めた。なんとなく、分かった。要は、似たもの姉妹なのだ。もしヒマリさんがお姉さんと同じ状況に陥ったら、きっと同じ行動をとると思う。

 現に、誘拐予告があっても全然自身の安全を気にかけないし、パンツを見られようと、裸を見られようと、気にしない。後輩から好意を寄せられても、それを受け取っていいのか迷ってしまう。つまり、どうしても自分を大切に出来ないのだ。眼の前に光があっても、あえて闇の方に足を進めてしまう。ヒマリさんは、そんな人だ。

 目一杯光を浴びて欲しいのに、この人は平気で自分を粗末にしてしまう。人の気も知らないで。

「ほんと、勝手ですよね」

 俺はそう言って、林檎りんごを一つ、乱暴に口に含んだ。


 夜22時頃にヒマリさんのお母さんは帰ってきた。寝ているヒマリさんの看病をしている俺を見て、お母さんは目を丸くした。

「あら、ヒマリのお友達?」

「後輩です。すみません、勝手にお邪魔して」

「いいえ。むしろありがとね。私、職場でもずっと心配で心配で。助かったわ」

 俺がお辞儀をして退出しようとすると、お母さんは、「もしかして」と言って、俺にたずねた。

「この娘の……彼氏さん?」

「いいえ、その……です」

 俺が苦笑いしながらそう言うと、お母さんはパッと明るい顔になった。

「そうなの。それじゃあ、正式に彼氏になったら、またいらっしゃい。うんとおもてなしするわ」

「じゃあ、振られないように頑張らないとですね」

 俺とお母さんは一緒に笑った。お母さんは目を細めて、寝ている愛娘まなむすめを眺めながら言う。

「よかったわね、ヒマリ。貴女あなた、愛されてるわ」

 俺はもう一度お辞儀をして部屋を出た。ヒマリさんの家を出ると、空には七色の星がまたたいていた。




 


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