第10話 恋煩い

 俺がある日、部室を訪れると裕也が一人鬱屈うっくつした表情で座っていた。

「おい、エースがそんな顔するもんじゃないぜ? まるで恋煩こいわずらいの乙女みたいじゃないか」

 俺が裕也の横に座るとアイツは小さく首を縦に振った。

「そうなんだ。恋煩こいわずらいなんだよ」

 俺は少しギョッとした。いつも惚れられる側のコイツがまさか誰かに惚れるとは。

「学年一のモテ男がいったい誰に惚れたんだ? 俺の知ってる奴なら協力するぜ」

 裕也は少し悩んだ後、2、3度頷うなずいた。

「そうだな。あの子はお前と関係が深いだろうし、お言葉に甘えようかな」

「俺と関係が深い?」

「ああ。俺が好きなのは、島崎さんなんだ。お前、幼馴染なんだろ?」

 「島崎」という名前を聞いた瞬間、時が止まったような気がした。俺は半ば無意識に「ああ」と答えながら、刹那せつなに、あの灼熱しゃくねつの夏を思い出していた。


 2年前、盛夏せいかのある日、オレンジの夕空は真っ白な飛行機雲によって真っ二つに割れていた。俺は公園のブランコに座りながら、包帯が巻かれた右腕を憤悶ふんもんの思いで見つめていた。医者は全治2ヶ月と言った。しかし、夏の大会まであと2週間となかった。足元に転がる小石を蹴る。小石は小さい音を立て転がり、誰かの足に当たった。

「ゲンヤくん?」

 彼女は瞳に憂色ゆうしょくを浮かべていた。白い首筋には汗がにじんでいる。セーラー服からは黒い下着が透けて見えた。俺は自嘲気味に笑ってみせた。

「この通り、中学3年生の野球少年の夏はもう終わっちまったみたいだ」

 マシロは柵を超えて俺に近寄り、包帯に巻かれた右手を触った。少し俯いた彼女の胸元から、白いブラジャーが一瞬見えた。

「でも、あなたはもう少しで高校生になるわ。そうでしょう?」

 背の低いマシロが上目遣いで俺の顔を見た。俺の喉が小さく鳴ったような気がした。

「私、あなたがこの公園で練習しているのを見るのが好きだったの。ほら、私の家からだとこの公園がよく見えるでしょ?」

 そう言ってマシロは、公園の向いにある自分の家の2階の窓を指さした。俺は練習を見られていたことを知り驚いた。彼女は俺のことなんか全く興味がないと思っていたのだ。

「だから、あなたには野球を続けてほしいの」

 彼女は俺の目をじっと見つめた。黒くて大きな瞳だ。雲間から夕陽が顔をのぞかせた。彼女の髪は夕陽であかく染まった。ーー気づけば俺はうなずいていた。

 公園を吹き抜ける涼風りょうふうが彼女の長いポニーテールを揺らした。彼女は「すずしい」と言って笑った。

俺は気づいたら夏だった。


 脳裏に浮かんだ記憶は眼前の景色をひどく残酷なものに思わせた。もし裕也がマシロに告白すれば彼女は間違いなくうなずくはずだ。それくらい裕也は魅力的な男だった。この男にマシロを渡したくない。烈火れっかの如き嫉妬は俺を狡猾こうかつな人間に変貌させた。

「……なあ裕也。もし告白するなら、うってつけの場所を知ってるぜ」

 俺は裕也に屋上での告白計画を提案した。鍵は俺が持ってくると約束した。後輩に鍵当番を代わってもらえば、簡単に鍵が盗めることを知っていたのだ。

 そして俺は朝練の時、遠藤の友人で野球部のマネージャーの酒井にこんな話をした。

「そういや知ってるか? マシロの奴、今日の放課後、屋上で裕也に告白するんだってさ」

「嘘! 美和子、りを戻そうとまだ頑張ってるのよ。美和子に伝えなきゃ」

「やめとけって。告白を阻止しようとしても無駄だ。無策で突っ込んだって玉砕ぎょくさいするに決まってる」

「たしかにそうよね……そうだ! クラスのみんなで山口くんを説得しに行けば心変わりしてくれるかもしれないわ」


 そして放課後、俺の計画通り「屋上事件」が起きた。遠藤を見た祐也は絶望的な顔をしていた。彼は振り返りマシロの顔を見た。彼女は目で遠藤の方に行くよう合図した。裕也は両のこぶしを握りしめ、苦しそうに小さくうなずいた。

 クラスメイトたちが教室に引き返す時、俺は裕也すれ違った。俺は小さく「ごめん」と呟いた。遠藤を止められなかったことへの謝罪なのか、それとも裕也をめたことへの謝罪だったのか、自分でもよく分からなかった。裕也は首を横に振り「仕方ないさ」と言った。


 俺の計画通り、裕也は遠藤と付き合うことになった。しかし、マシロがいじめられたのは想定外だった。教室にマシロの席がなくなっているのを見て、俺は愕然がくぜんとした。眼の前の光景が信じられなかった。

「おい、これ、どういうことだよ」

 遠藤は手を叩きながら高笑いした。

「傑作でしょ? 私から裕也を奪おうとするから罰が当たったのよ」

 気づけば俺は遠藤の頬を叩いていた。俺は教室を飛び出し、裕也を探した。裕也にいじめを報告し、なんとか二人でいじめを収束させようとした。俺は友人にも声をかけ、遠藤たちの弾圧を徹底的に行った。結果、いじめは収束し、裕也と遠藤は破局した。

 気づけば俺はマシロを救ったヒーローになっていた。マシロはやつれた顔に微笑を浮かばせて、俺に「ありがとう」と言った。その言葉を聞いた俺は、身を引き裂くほどの罪悪感と、心臓を燃やすほどの歓喜に包まれた。惚れた女を俺が自らの手で傷つけ、そして彼女は俺に感謝している。こんなにも辛く、そして幸せな瞬間はなかった。


 俺はマシロに告白することが出来なかった。いま告白すれば、もしかしたら彼女と付き合えるかもしれない。しかし、良心の呵責かしゃくがそれを許さなかった。でも、あのサイコー新聞を見た時は、天にも昇るような気持ちだった。俺は頭の中で彼女の告白の答えを探した。「よろしく」、「ごめん」、「よろしく」、「よろしく」、「ごめん」、「よろしく」……俺はまとまらない頭を抱えたまま、屋上に向かった……




 

 


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