第12話 象徴というものは、なにも家名だけではない

 一方その頃、ファラー子爵邸の屋敷タウンハウスへ向かったジョシュは、昨日同様、子爵家の従僕フットマンに子爵邸への訪問を拒まれていた。


「なりませんっ! いくらお客様が紋章院の使者とはいえ、旦那様のお許しなく屋敷内へ招くことはできません!」


 皺のない派手なお仕着せを着た年若い青年が、玄関前ホールへ立ち入らせまいとジョシュの前に立ちはだかる。

 子爵の見栄で雇われただけであろうに、昨日といい今日といい、自分の仕事をまっとうしようと懸命な姿は、感心するものがある。


 けれど、ジョシュも子爵邸へは仕事できている。

 大紋章の鑑定審査は中断しているけれど、ファラー子爵家を調べてくれと言ったのは我らが姫様ティアナである。

 ティアナの望みを叶えない、だなんて選択肢は、ジョシュの中にはない。

 とはいえ、もう一つの望みだけは、叶えるかどうか迷い中であるが。


 ——セイリオス卿を助けようとする気持ちはわかるが、気に入らない。


 ティアナの可憐な唇から他人の男セイリオスの名前が紡がれるたびに、ジョシュの胸の内はざわついた。

 思い返せば返すほど、そのざわつきは酷くなる。


 ——いっそのこと、セイリオス卿は不在で、連れてこれなかった、とでも言い訳するか?


 そんなことを真剣に考えていたジョシュの耳に、従僕フットマンの強気な拒絶が飛び込んだ。


「か、帰ってくださいッ!」

「どけ。無意味に怪我を負わせたくはない。しかし、君が怪我をしたところで俺は少しも困らない」


 個人的な苛立ちを無関係な従僕フットマンにぶつける行為が紳士的ではないことなど、わかりきっている。

 それでもジョシュは、無謀にも彼を押し返そうとしてくる従僕フットマンに八つ当たりをするよう、ギロリと睨む。


「ひ、ひぃ……!」

「それくらいにしてくださいませんか、紋章官殿。彼は仕事に忠実なだけです」

「れ、レオン様……ッ!」


 蛇に睨まれた蛙のように震え上がっていた従僕フットマンが、救世主を得たかのように手を合わせて指を組む。

 あらわれたのは、薄茶色の短い髪を丁寧にき、翡翠色の目を微笑みの形に緩めた長身の青年だった。


 大事に育てられたことがわかる肌のきめ細かさ。そして恵まれた体格にあった質実シンプルな装いは、華美で豪奢な子爵邸の玄関間ホールでは返って目立っている。


「……あなたは」

「レオン・ファラー。この家の次男……いえ、昨日暴かれた真実によって、今では長男になってしまいましたけれど」


 レオンは自重気味に目を伏せた。けれどすぐに紳士の笑みポーカーフェイスで首を横へと振る。


「紋章官殿。父は早朝早く、嫡男変更の手続きのために貴族院へ行きましたので、不在ですよ」

「そうか」

「ええ、そうなんです。ですから代わりに僕の話を聞いてくださいませんか」

「君の話を? なんのために」


 憮然とした顔でジョシュが問うと、レオンは浮かべた紳士の笑みを深めて嗤った。

 まだ成人もしていない青年が浮かべていいような笑みじゃない。


 ジョシュは思わず気圧されて、不本意ながらも一歩後退してしまう。そんなジョシュとの物理的な距離を詰めようと、レオンが一歩、前へ出る。

 そうして。


「僕のためにも、兄さんのためにも——父を売ろうと思いまして」


 弧を描く翡翠色の双眸は、深い深い闇に侵食されていた。



 ◇◆◇◆◇



「ティアナ様、なにかよいことでもございましたか?」


 ベアトリスと婚約式の打ち合わせを終わらせて馬車へ戻ったティアナは、同席していたマリアにそう問われた。

 マリアはティアナの付添人として、始終静かに微笑み、口をつぐんでいた。

 だから余計に会話に飢えていた。マリアの腹の底では、聞きたい、話したいという欲求が爆発している。


「途中から様子がお変わりになられましたが、どうされたのです? 殿下とのお話でなにを得たのですか?」


 宝石のような緑色の眼を輝かせ、ティアナに迫るマリアは、まるで少女のようだ。二十歳を超えた年上であることを忘れてしまうような振る舞い。

 なんて、可愛らしい!

 ティアナは柔らかく眼を細めてコクリと小さく頷いた。


象徴シンボルというものは、なにも家名だけではないのだ、と殿下に教えていただきました」


 紋章に描く図案チャージは、家名から着想を得て決めるものは多い。


 スピアの意味を持つ貴族の多くは、槍を描いた紋章を使っていることが多いし、家名に熊の意味を持つ単語を用いている貴族の紋章も、そう。


「わたしとしたことが、仄めかしの紋章アリューシヴ・アームズの存在を忘れてしまうなんて! 本来なら、仄めかしは大紋章の装飾で使うことはありません。けれど、やっぱり、あの大紋章は別、特別だわ! た、食べたいっ! 諦められない!」


 マリアしかいない馬車の中とはいえ、ティアナは興奮して叫んでしまった。

 しまった、暴走しかけたわ。

 ティアナは自分の失態に気がつくと、ゴホンと咳払いをひとつする。そうやって意味のない誤魔化しをして、興奮を理性で抑え込み静かに続けた。


「あの大紋章の鍵となる象徴シンボルは、三つも使われている天狼です。……そう、天狼シリウス。かつてラステサリア王国には、天狼の名を持つ高貴なる高位神官がおられました」


 馬車に揺られながらも静かに語るティアナの言葉に、正面に座るマリアがハッと息を呑む。


「……まさか、王弟殿下。十七年前に亡くなられているシリウス王弟殿下ですか?」

「ええ、そうよ。今はまだ、わたしの直感でしかないけれど。けれど、シリウス殿下との繋がりをあらわすなら、あれほど見事な最適解はない」

「……あっ、破れていない外套マントルですね!」


 マリアの顔が華やぐように明るくなった。紋章官ではないマリアは、紋章に詳しいわけじゃない。

 けれど、ティアナがマリアの前で話した内容を忘れるような貧弱な記憶力をしていない。有能なメイドなのである。


 ティアナはニコリと微笑んだ。話すたびにイチから説明をしなくていい関係は、貴重だ。

 マリアの優れた記憶力にティアナの胸の内がジワリと暖まる。

 少しばかり高揚しながら、ティアナは話を続けた。


「そう、そうよ。殿下は神官でした、それも高位の。戦場とは無縁の神官ならば、外套マントルは裂けているほうがおかしい。傷ひとつなくて正解なのです」

「それに、お色も高貴を示す紫色パーピュア……!」


「紫色は例外色。けれど王弟殿下という身分があれば使用も許される。血縁鑑定用の事前刻印だってできる。……ああ、もっと早く気づけたはずなのに。子爵家が持ち込んだ紋章ということで先入観があったんだわ!」

「……本当にそれが原因でしょうか」


 いつの間にかマリアがティアナを疑うような目で見つめている。

 身に覚えがない、とは言い切れないやましさを抱えながら、ティアナは淑女レディたしなみとして微笑んだ。


「あら、マリア。それって、わたしが大紋章を食べることしか考えていなかったから、って言いたいの?」

「御自覚があるなら、結構ですわ。ティアナ様が紋章に目がないのは、とてもとてもよく承知しておりますから」

「ぐっ、否定できない……。仕方ないでしょ、紋章は食べても、謎を解いても美味しいのだもの!」


 完全に開き直ったティアナが、拳を握りしめて力説した。

 けれどティアナはすぐに、その勢いを萎れさせ、声を落として疑問を口にする。


「……でも、セイリオス卿がシリウス王弟殿下の落とし胤だとして……殿下は高位神官。そんなこと、あり得るのかしら」


 女神に使える神官は、神殿へ入る際に俗世を捨て神籍を得る。女神は嫉妬深いようで、神籍を得る前の婚姻すらも許されず、離縁してからでなければ神殿に上がれない。


 ——王弟殿下は未婚のまま神殿へ上がられたはず。


 ティアナが浮かんだ疑問に表情を険しくしていると、柔らかく胸の内を擽ぐるような軽やかな声でマリアが答えた。


「シリウス殿下は、稀代の美男であったと聞いています。今でも乙女のあいだでは、王弟殿下と秘密の恋人を題材モデルとした恋愛小説が人気なんですよ」

「秘密の恋人? それ、ただの妄想や空想でしょう?」


「証拠はありませんね。根拠のない噂話として広まっているだけなのは否めません。ですが……」

「火のないところに煙は立たない。もしかしたら、今、紋章院が忙しいのは、この噂話が元になっているからなのかもしれないわね」


 ティアナが深く長く息を吐き出した。ティアナとマリアを乗せた馬車はちょうど、紋章院の馬車止めへ差しかかっていた。



 ◇◆◇◆◇



 マリアとともに馬車を降りたティアナは、前方に一台の見知った馬車が止まっていることに気がついた。


「あれは……ジョシュが使っている馬車ね」

「どうしたのでしょう。戻られたにしては早すぎると思いますが……」

「そうね。でもジョシュのことだから、なにかしら掴んだのかもしれないわ」


 ティアナはマリアと話しながら、ジョシュの馬車へと向かって歩く。

 すると、なんの前触れもなく馬車の扉が開いて、誰かが飛び出すように降りてきた。


「ジョシュ、ど——」

 うだった、と続けようとした言葉は、ティアナの喉の奥で消失した。


 どこかで見たことがあるような容姿の青年が、ジョシュの馬車から飛び出して駆け寄って、ティアナに詰め寄ったから。


「待て、レオン卿! うちのレディティアナに不敬なことを!」


 焦ったジョシュの鋭い声が、ティアナの耳に届く。——と同時に、ティアナは華奢な腕を青年レオンに強く掴まれた。


「い、痛……っ。な、なに?」

「お願いです、紋章官さま! 兄を……兄を助けてください!」


 いったい、なにが起こったというのか。


 必死な形相で、今にも泣き出しそうな翡翠色の眼で、レオンは縋りついたティアナに懇願し、躊躇いなく地面に額を擦りつけて願った。





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