紛い物の公女様は紋章を食べたい!

七緒ナナオ

第1話 食べてしまってよろしいので?

「なんて綺麗な紋章。こちらはもう食べてしまってもよろしいですか?」


 うっとりと目を細めたティアナが、机上に広げられた巻物スクロールに手を伸ばす。


 わずかばかり上気した頬、乱れつつある呼吸と拍動。神秘的な紫色の瞳に浮かんだ好奇心と欲望とが混ざり合って炎となり、白金色の長い睫毛に縁取られた双眸が爛々らんらんと燃えている。


 ティアナの眼には、同席者の存在なんて視えていない。

 ここがラステサリア王立紋章院の貴族専用応接室であることも、来客対応をしていることも、すべて忘れ去っているほど。


 眼に映るのは、巻物の本紙に描かれた美しい紋章ただひとつ。他人の眼にはただの絵に見えたとしても、ティアナには輝き匂い立つ魅惑の蜜飴のように感じられるのだ。


 ——んああッ! この紋章は、どのような味がするのかしら?


 紋章は食べ物ではない。そんなことは百も承知だ。けれど、わかっていても止められない欲望と習慣は確かに存在する。

 じゅるり。

 いけない、理性が働いていなかった。もう少し欲望の歯止めブレーキ役として働いてくれてもいいのでは?


 とにもかくにも貴族令嬢らしからぬ音を響かせてしまったティアナは、己の失態を挽回しようと微笑んだ。


 可憐な美貌を持つティアナは、自分の容姿武器の使いどころを知っている。

 けれどその美貌も、ティアナの奇怪な言動の前では意味をなさない。


 誰も彼もが言葉を失い唖然としている。空気が冷たく凍りついている。

 ティアナの隣に座る上司も、テーブルを挟んで向かいの三人掛けのソファに座る派手なだけの服に身を包んだ小太りな男も、その隣に並ぶ男の息子も。


 応接室の内扉番を任された紋章官だけが、変わらぬ表情で古拙な微笑アルカイック・スマイルを浮かべていた。



 ◇◆◇◆◇



 ——もしやこれは、チャンスでは?


 ティアナは奇妙な生き物でも見るのような不躾な視線を一身に受けながら、キラリと紫眼を光らせた。


 冷たい視線を受けてもどこ吹く風だ。呼吸を深く、慎重に。注意深く周りを観察して好機を狙う。

 机上の巻物スクロールは無防備で、誰も注視をしてはいない。


 ティアナをよく知る上司でさえ、可哀想なものを見る目で見ている。唯一、扉番だけがいつもと変わらぬ顔でティアナを見守っている。彼が守っているのは、巻物じゃない。ティアナだ。だから尚更、ティアナは思う。


 ——やっぱりこれって、チャンスだわ。


 淑女らしい可憐な微笑みの裏で、静かにゴクリと喉が鳴る。

 ここは、ラステサリア王立紋章院。その貴族専用応接室だ。

 紋章院が持つ数ある部屋の中でも一、二を争うほど贅を尽くして拵えた部屋。


 葉薊アカンサスをモチーフにした暖色系の壁紙に四方を囲まれ、天井には豪奢なシャンデリア。彩光用に作られた窓は天井から床までの高さがあり、窓にはレースと真紅の光沢生地で作られたひだがあるカーテンがかけられている。


 今は午後。レースから透ける社交界シーズン終盤の夏の日差しが、柔らかく室内へ差し込んでいた。


 一見、穏やかに見える室内も、ティアナの奇言のせいで台無しだ。和やかな空気からはほど遠い。凍りついた空気は皆の動きを鈍くする。

 だからティアナは今がチャンスだと、蜜飴のような美味しそうな紋章が描かれた巻物スクロールをすかさず手に取り微笑んだ。


「それでは、いただきま——」

「待て。待ちなさいティアナ」


 柔らかな重低音が、ティアナの大胆な奇行を制止した。

 細められた琥珀色の眼、首を横へ振るたびにはらりと揺れる白くて長い前髪。正気に戻った壮年の上司ガーラント・オルティス上級紋章官だ。


 あと少しであの紋章を味わえたというのに、なんて間の悪さ。もう少しゆっくりしてくれてもいいのに。上司ガーラントの理性は働き者らしい。

 ティアナが怨みがましく睨むと、ガーラントは冷静さを取り戻した上司の顔で冷たく首を横へと振った。


「ティアナ・アンフィライト中級紋章官、鑑定前に紋章を食べてはいけない」

「止めないでくださいませ。こんなに美味しそうな紋章を前にして、放っておくことなどできません!」


「駄目だ。その巻物スクロールをテーブルの上に戻しなさい」

「嫌です。絶対に美味しい紋章ですもの。わたしの直感が告げています! わたしはこれを絶対に食べますから!」


「そ、そのお嬢さんレディは、紋章を……紋章を食べるのかね?」


 なにか恐ろしいものでも見るような顔つきで小太りの男が言った。心なしか頬が引き攣っている。ティアナは男を安心させるように柔らかく目を細めた。


「ふふっ……もちろんですわ。一度味わっ」

「味わわせようとしてはいけない! 紋章は飲食物ではないと、何度言ったらその言動を改めるのかね、ティアナ・アンフィライト中級紋章官!」


「ガーラント卿、わたしはこの世すべての紋章をこの頭の中に蓄積したいのです。紋章に刻まれた歴史情報を咀嚼して、わたしの知識ものにしたいの。だから『食べる』のよ?」


 ティアナが胸を張り、堂々と奇言を持って抗議する。


 知識はとろける蜜の味。

 紋章を深く深く読み解くのは至福の時間。ひとつずつ読み解いた情報を知識として呑み込むのは最上の瞬間。情報データ断片ピースがカチリとはまって、ひとつの絵になったとき、目の覚めるような強烈な爽やかさと光に撃たれるのだ。


 けれど、そう感じているのはティアナだけ。万人に共感されることじゃない。


 予想通り、真向かいに座る小太りの男は侮蔑とあざけりの色をあからさまに浮かべて膝を叩いた。


「ははぁ、お嬢さんレディが百万もの紋章を記憶した生ける紋章鑑ロール・オブ・アームズ、存在しない公爵家アンフィライト、妖精女王のために創られた爵位を継ぐ妖精姫か! なるほど、噂通りの奇怪さだ!」

「お褒めの言葉、ありがとう存じます」


 褒められていないことはわかっていたし、珍獣扱いを受けるのはいつものこと。

 男は装いが派手なだけ。ティアナは貴族紳士らしからぬ無礼な言動に怒ることなく、淑女の仮面で柔らかく微笑んでみせた。まるで花が綻ぶかのようなはかない笑み。


 途端、肉に埋もれた小さな目がカッと見開き彷徨さまよいだす。ソワソワと指先が遊び出し、ゴクリと喉が上下する。

 あら、呆気ない。

 ティアナは黒い本心を綺麗な笑みで覆い隠し、目を伏せた。そうして白金色の長い睫毛を震わせてから、男と視線をガチリと合わせる。


「……ッッ! い、いやぁ……妖精姫の名のとおり、美しいお嬢さんレディだ」


 それだけで小太りな男は頬を赤らめ、機嫌がよくなった。機嫌のよさは口の動きをなめらかにしてくれる。

 しめしめ、チョロい。

 ティアナはダメ押しのようにニコリと可憐に微笑んで男とその家族から言葉と行動を奪ってしまう。


 そうした上で、胸に抱いた巻物スクロールを再びテーブルへ戻して広げ、傷ひとつない華奢な白い手で描かれた紋章を指差した。


「これほど見事な大紋章アチーヴメントです。高貴なる血に連なる家門の方なのでは?」


 ティアナの目は微笑みを湛えたままだ。けれどその奥では、鋭く細められ小太りで派手なだけの男を見ている。


 ピンとキリでいうならば、確実に爵位はキリであろう。身体の幅が広いだけで粗野な言動を取る貴族この男が持ち込んだ大紋章。


 けれどそれは、ただの紋章ではなかったのである。




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