猫が逃げた話
山田貴文
猫が逃げた話
夜、家に帰ると猫がいなかった。一人暮らしの住まいをあっちこっち探し回る。
猫を飼ったことのある人ならわかると思うが、あいつらは時々飼い主とかくれんぼをしているかのごとく、突然姿を消すことがある。名前を呼んでも出てこない。家の死角にひそんでいるのだ。ようやく見つけると、こちらの顔を見て「ニャー」と言うあれ。
でも、今回は違った。どこを探してもいない。本当に逃げてしまったのか。
思い当たる節はあった。最近、私が毎朝出勤しようとするたびにドアへ突撃してきて、一緒に出ようとしていたのだ。一度は私の足元をすり抜けて外へ出たところを捕まえて、家に放り込んだこともあった。今度ばかりは私が何かに気を取られているすきに逃げ出したのかもしれない。
十年以上室内飼いをしてきたのだが、毎日アパートの二階から窓の外をながめていたあいつは下界へのあこがれをずっと持っていたのだろうか。
だが、タイミングが最悪だった。つい数日前にペットの美容院で猫を丸刈りにしたばかりだったのだ。もともと長毛の猫だったが、収拾がつかなくなるので時々丸刈りにしている。
丸刈りなんて可哀想と思うかもしれないが、可哀想なのは飼い主の私である。家中毛だらけになり、空中を舞った毛は私の食べ物にも入る。トイレの後、猫は尻に糞をつけたまま家中を走り回る。衛生上、到底耐えられる状態ではなかった。
わかっていて飼ったのだろうとさらに言う人がいるかもだが、それも違う。私は離婚して、飼っていた猫夫婦も引き離されることになったのだが、元妻が連れてきた雌猫を押しつけられたのだ。私が仲がよかった美形の雄猫は彼女が連れて家を出てしまった。残されたのは折り合いが悪かった不細工な雌猫と私である。
そういうわけで、猫は私の理髪代の4倍もの費用を払って丸刈りにしたての姿だ。季節が寒い冬でないのはまだよかった。
私は家の近所を探し回り、猫の名前を呼んだ。すると、かすかにあいつの声が聞こえるではないか。飼い主は猫が何匹いようと、自分の猫の声を聞き分けられるものだ。
声がする方に行くと、どうも隣家の軒下にいるようだ。どうせ逃げるならもっと遠くへ行けばよさそうなものだが、身近な所で落ち着いてしまったようだ。私は隣家との塀越しに猫を呼んだ。ニャーと返事をするが、出てこない。強気だ、あの野郎。
隣が個人宅ならすみませんと断って敷地へ入らせてもらう。だけど、そこはアパートだった。誰に断ればいいかわからない。私は一度家に戻って猫の餌を持つと、再び外へ出た。
いけないことだなとは思いつつ塀を乗り越え、アパート軒下のそばに紙皿へ入れた餌を置いた。
翌朝、餌はなくなっていた。
翌日もその翌日も猫は出てこなかった。毎晩、塀を乗り越えては餌を置きに行った。警察に通報されてもおかしくなかったが、それはどうにかまぬがれた。
毎晩、真夜中になると、猫の吠え声が聞こえる。うちのやつだ。どうも他の野良猫たちと喧嘩しているようだ。明らかにうちの猫が優勢である。野良猫もびっくりしただろう。自然界には存在しない丸刈りの猫が突然現れ、威嚇してきたのだから。
そして猫が逃げてから三日目の夜。帰宅した私は家のドアの脇に茶色い塊を見た。
うちの猫だった。土下座しているではないか。このたびは大変失礼しましたと言わんばかりに。やはり世間の風は厳しかったようだ。
私はドアを開けると、猫に言った。
「ほら、入れよ」
猫はもじもじしていて、なかなか入ってこない。やつなりに恥ずかしいようだ。数回うながすと、うつむいたまま、ようやくとぼとぼと入ってきた。
私は猫の餌皿にやつの好物であるウエットフードを出した。
「おい、食えよ」
猫に声をかけると、やつはいいんですかという顔をして、じっとこちらを見ている。
私がうなずくと、猫は軽く私に会釈して、ガツガツと餌を食べ出した。背中が震えている。泣いているのかなと思ったけれど、決して涙は見せなかった。
猫が逃げた話 山田貴文 @Moonlightsy358
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