第18話 かえってきた寿人
その日は、いつものように、ぼーっと空を眺めていた。
ビルの3階ほどの高さを低空飛行する飛行船も見慣れた光景だ。だが、今日は様子がちょっとおかしい。飛行船の扉が開いている。
目をこする。見間違いではないようだ。そこから人が落ちてくる。
???
見事な受け身を取った青年は、着地による衝撃だろうか。産まれたての小鹿のように、ぴくぴくと震えていた。
「……とりあえず救急よね」
私は近くにある公衆電話の、非常用ボタンを押したのだった。
******
一ヶ月程度前の出来事なのに、ずいぶん昔のことように感じる。衝撃的な出会い、あまりにも物理的な衝撃に心底驚いたことを記憶している。
今日は心臓に負担のかかることはなさそうだ。私は今、『医療都市アレクリン』の玄関口である『ロスマリヌス空港』にいる。
寿人くんが島に戻ってくるのだ。
寿人くんがいない三週間の間にも、さまざまなことがあった。
突然な小柚の来訪のこと。かすみさんと山岸くんの出会いのこと。『ココア』の新作パンが美味しかったこと。『ココア』のおじいちゃんが、ゲートボール大会で準優勝したこと。岩清水先生の論文が、また大きな賞をもらったこと。
話したいことがたくさんあるのだ。毎日当たり前のように会っていたからこそ、会えない日々が続くことに耐えられなくなる。初めての経験に完全に舞い上がっていた。だから。
「沙月さん! 待っててくれたんだ!」
「ぐ、偶然。近くに行く用事があったから、ついでに寄ったの」
嘘である。素直になれない私を心の中でサンドバッグにする。
「それでも、嬉しいよ。ありがとう」
「……どういたしまして。お帰りなさい、寿人くん」
「ただいま! 沙月さん」
寿人くんの満面の笑みを受けて、私の心は洗われたような気がしたのである。
******
大きな荷物は、宅配サービスで送っていたらしい。『ココア』のパンが恋しいという寿人くんの要望を受けて、私たちは空港からそのまま『ココア』に来ていた。
「——うまく話し相手になってあげられているのか、分からないけれど」
話しているのは、かすみさんの話題。
「うーん。聞いた限りでは、すごく楽しんでくれてる気がするけど」
寿人くんは、『ココア』の新作であるコーヒーサンドを食べながら、意見をくれる。
「それに、もし来てほしくなかったら、また会いましょう、なんて言わないんじゃないかな」
「それは……、そうなのだけど」
自信が全くないわけではないのだ。少なくとも嫌われてはないように思える。しかし、円滑に会話が出来ているかの確証がない。
「……沙月さんがまたね、っていう時、その子はどんな表情してる?」
かすみさんの顔を思い浮かべる。私のそっけない挨拶にも、満面の笑みで答えてくれる。
「どう?」
「……上手くやれているのかしら」
私は少しポジティブにつぶやく。
「ねっ」
寿人くんがそんな私を見て、ほほ笑んでくれる。その笑顔にかなり心が軽くなる。上手くやれていたとしたら心が救われる、そんな気がした。
「菊子さーん! おいしいですね! これ!」
寿人くんが、三つ目のコーヒーサンドを手に持ちながら、菊子さんに話しかける。
「あら〜。ありがとう、寿人くん。嬉しいわ〜」
菊子さんは朗らかに笑っている。そういえば、いつの間にか名前で呼び合っているふたり。私が知らない間に、足繁く通っていたらしいので、当然といえば当然なのかもしれないが。
私のあの時の一大決心は、他の人にとっては容易いものだったのだろうか。
「特にこのコーヒークリームが最高です!」
私の心境を知り得ない寿人くんは、変わらずコーヒーサンドに夢中である。
「そのコーヒークリームはねぇ〜、おとうさんがすごく悩んでいたのよぉ〜。苦味と甘味の調和が、なかなかうまくいかないって」
菊子さんのテンションは明らかに高くなっている。
「絶妙ですよ! 甘さと苦さのバランス! 昭博さん!」
おじいさんはレジの前で親指を立てながら、ご満悦の表情だ。気づけば、いつの間にかおじいさんのことも下の名前で呼ぶようになっている。
寿人くんはこういう人なのだ。私は深く考えるのをやめて、半分ほど残っている目の前のコーヒーサンドを楽しむことにした。
******
寿人くんの『感情不全』は完治している。機械検査を通過し、岩清水先生の診断書というお墨付きもいただいた。しかし、病気が治ったから即退去せよ、というのはあまりにも人道的ではない。
そのため、『医療都市アレクリン』では、抱えている病気が治ったとしても、一定期間の居住が認められている。さらに、再発の恐れがある病気に関しては、半永久的に居住が許される。
ただし、島から出る選択をする人がほとんどである。ここには、何かしら閉鎖的な空気が漂っていて、どこか冷たい風が吹いているような気がするから。それでも、寿人くんはしばらくの間、ここに残ることを決めたらしい。
理由を聞くと、「やり残したことがあるから」と言っていた。やり残したことの具体的な部分は教えてくれなかったのだ。
それでも、私はもうしばらくは寿人くんと一緒にいられるなら、その時間をめいっぱい楽しもうと思ったのだった。
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