第13話 もしも……

 揚羽は自室に戻り、一人どうしようもない感情に打ちひしがれていた。なんの役にも立たない自分自身が大嫌いでどうしようもないくらい真っ暗な感情に飲まれていた。


 拓也の役に立てると思ったのはただの勘違い。あれは李音様に助けてもらっただけで私自身が何かしてあげられたわけではない。


 李音様にも本当に悪いことをした。怒りに満ちたあの表情……思い出すだけで怖かった。彼に嫌われてしまったのではないかと、まだなんのお礼もできていないのに……これじゃあ、ただ迷惑を振り撒いて、厄介ごとを持ってきた疫病神だ……。


「もう……嫌だ……お母さん……ッ!」


 何もかも捨てて逃げてしまいたい。そう強く、強く願ってしまった。どうしても脳内に浮かぶのは幼い頃から呪いのようにかけられてきた父の言葉だった。


『お前は幸せになんて絶対になれない、俺がお前を一生呪って不幸にしてやるからな』


 私は本当に呪われた子なのかもしれない……幼い頃から言われ続けた言葉に今も揚羽は囚われている。それを振り払う術を彼女は知らないのだ。


 誰のことも幸せにできない不吉な黒アゲハ、学生の時、そうあだ名をつけられ呼ばれていたことを思い出す。全くその通りだ、この醜い漆黒の長い髪は側から見れば不気味以外の何者でもない。


『綺麗な髪だね』


 そう言って髪を撫でてくれた拓也はもういない。


「こんな……こんな髪なんて……っ!」


 全部いらない、全部消えてしまえ。彼との思い出は一つ残らず忘れてしまいたかった。


 部屋の中に置かれたダンボールの荷物を無理やりこじ開け、中身をひっくり返し、中から鋏を取り出した。四年分の思い出が詰まった長い髪を掬い上げ、鋏を入れようとするが何故か怖気付いてしまう。この髪を切ったら本当に拓也との縁がきれてまた昔の自分に戻ってしまう……。


 あれ、昔の自分……って、何?


 脳内に吹きだめのように溜まり続けるドス黒い感情が心をざわつかせる。今の私と昔の私、一体何が違うと言うのだろうか? 何も変わっていないではないか。ただ他人に縋りつき、縋り付く人が変わっただけで自分の足で歩むことなんて全くしていない。


 私は、生きていてもいいのだろうか……? ドクンっと心臓が脈を打つ。


 ずっと、ずっと死にたいと思っていた。でも勇気がなくて……ただひたすら息を殺して今まで生きてきた。でも、もういいんじゃないか? どうせ私は蛹のようにただ閉じこもっていたあの頃と何一つ変わっていない。蝶のように一人で飛び立つ勇気など持てないのだ。


 なら今ここで人生の幕をおろしても、誰にも迷惑がかからないのでは……? ドクンッ、ドクンッと心臓が脈を打つたびに冷や汗が頬を伝った。今、私の手には鋭利な鋏が握られている。これを首筋に突き立てればいいだけの話。


 どうせこれからも一生、私は拓也への感謝の気持ちは消えることがない。


 例え偽りの愛だったのだとしても私が救われたのは紛れもない事実。それを最初から無かったことになんてできなかった。


 でもごめんね。感謝と共に与えられたこの痛みを生涯受け入れていく強さは生憎持ち合わせていないの……。


「天国ってどういうところかなぁ……」


 フラフラと鋏を手に持ったまま立ち上がり、部屋の窓へと近づいた。空を見上げるともうとっくに日は沈み、月は闇に飲まれるように弱い光で辺りを照らしていた。


 すると窓に一匹の蝶がコツンとぶつかってきた。こんな夜遅くに蝶が飛ぶなんて珍しい、思わず揚羽は窓をあけその珍しい客を部屋の中へと招き入れた。


「お前も独りぼっちなの?」


 ひらひらと部屋の中を舞う蝶を見つめ話しかける。外の闇をそのまま閉じ込めたような真っ黒いカラスアゲハは力なく部屋を飛び回り、揚羽の鞄からこぼれ落ちていたお守りの上に止まった。


 そう言えば蝶は死者の魂を運ぶ生き物って誰かが言ってたっけ。肉体から魂が離れた後、ひらひらと飛ぶ蝶が運んでくれるのだそうだ。


「もしかして、お迎えに来てくれたのかな」


 このままこの子が私の魂を攫って、大好きな母の元へ連れていってくれるのであれば本望だ。さっきまで震えていた手が止まり、頭の中が酷く落ち着いて温かい気持ちで満たされた。


 もう何も怖くはない。


 揚羽は一呼吸おいて首筋に切先を突き立てた。鈍い痛みと赤い血飛沫、遠のく意識の中、部屋の扉が叩かれた音がした。少しして扉が開くと部屋の中に女の人の悲鳴が鳴り響く。


 あぁ、薫さんかな……? と思ったがすでに目が霞んできて確認する術がなかった。声が徐々に遠ざかり、少し静かになったなと思ったらまたバタバタと部屋に人が入ってくる気配がして誰かに上半身を抱き上げられた気がした。


「おいっ、しっかりしろッ!」


 すぐそばで叱咤する声、でもそれは近くにいるはずなのに酷く遠くで聞こえた気がした。最後の力を振り絞って目を開けてみたけどやっぱり霞んでよく見えないや。


 でもこの声は李音様だ。冷たい氷のような……でもとっても暖かい声。


 李音様、ご恩を返せず逃げる選択を選んでしまい申し訳ございません……。弱い私で申し訳ございません……足手纏いで申し訳ありません……。


 急いで言葉にしようと口をパクパクと動かしたけれど、きっと全部は言葉で伝えきれなかった。それにまた謝るな、と怒られてしまうのだろうか? でも謝罪の言葉以外何を口にすれば許されるのかわからなかった。


 いや、そもそも許しをこうこと自体間違っているのかもしれない。私はきっと彼に助けを求めるべきではなかったのだ。彼に助けてもらわなければお金を用意できず拓也達に渡さなくてすんだかもしれないし、李音様にだって多大なご迷惑をかけることもなかった。


(ごめんなさい……ごめんなさい……)


 心の中でひたすら謝った。薄れゆく意識の水底で一筋の光が見えた気がした。あぁ、なんてあたたかい光なのだろう……。


「ダメだ! このまま死ぬなんて絶対許さない! もう一度、もう一度だけ俺を信じろ!」


 お母さん、拓也。私が信じた二人はもういない。なのにまだ私に誰かを信じろと命ずるのですか? でもそうですね。私は貴方の所有物になったんだからせめて最後くらいきちんと命令は聞かないとダメよね……。


(……は、い)


 返事はきちんと届いただろうか? もう、限界は近いようだ。


 ただ……幸せになりたかっただけなのに。そう願うことは、呪われている私には……罪なのでしょうか? そんなことを思いながら揚羽は最後の意識を手放した。


 そして揚羽の意識が事切れたのがわかったかのように先ほど部屋に招き入れた小さな友人は静かに揚羽の手に止まった。

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