第3話 買収

 次の日、揚羽は足取りが軽かった。今日の午後三時、昨日会ったばかりの拓也とまた会う約束をしていたからだ。お金の用意もなんとかできた。これで、これで拓也が救われるならと思うと自然と笑みがこぼれた。


 漆黒の腰くらいまである長い髪に心地よい風が通り抜け、ふと空を見上げた。今日は晴天。まるで今の心のように晴れやかな秋の空。


なんの力にも慣れないと思っていたが、私だってやればできるのだ。何よりずっと、ずっと私は拓也に昔、借りた恩を一生をかけてでも返したいと常々思っていたのだ。


 それがまさかこんなに早く彼の役に立てるとは。それがすごく嬉しくて浮かれていた。


 例えばこの先、どんなに酷いことが待ち受けていようと私はなんでも耐えられると思った。だって私には拓也がいて、すごく幸せだと感じていたから。


 例え、私が一千万の代わりに他の男の所有物モノになったとしても、拓也なら受け入れてくれる、きっと待っていてくれる。そんな補償のない、薄っぺらい自信がなぜかあった。









––昨日、私は母が残した名刺に書かれている桜乃宮さくらのみや李音りおんと言う人物に電話をかけた。


 しかし、最初に電話に出たのは本人ではなく、この家で働いているメイドの薫という女性だった。私は事の説明をし、なんとか話だけでも聞いてもらえないかと必死に頼み込んだ。


 するとメイドを通し、その人物は初対面にも関わらず私と会って直接話を聞いてくれたのだ。名前だけでは性別がどちらかわからなかったのだが、会ってみると李音は私と同じくらいの20代くらいの若い青年だった。


 なぜ母がこの青年と一体どういう関わりがあったのか、もちろん聞きたかったが今はそれどころではない。私はどうしてもお金が必要なことを彼に頼み込んだ。


 濃い紫の瞳と手入れされた美しい茶色の髪。肩くらいまである長さの髪をハーフアップで止めた美しい顔立ちの青年は私の話を最後まで聞いてくれたが、終始機嫌の悪そうな顰めっ面のままだった。


「つまり……男のために金を用意したい、その金を俺に借りたい、ってことか?」


 不機嫌な顔に釣り合う冷たくて氷のような声が李音の口から溢れ出した。


「……その通りでございます」


 頭をたれ、私はそのまま床にへばり付くように土下座をした。


 こんなの慣れてる、幼い頃からいろんな人に頭を下げてきた。私のプライド一つで願いを聞いてもらえるのであれば安いものだ。


「何卒、お力添えをいただきたく思います、李音様」


 しばしの沈黙。しかし私にとってはとても長い沈黙に思えた。


 やはり見ず知らずの、しかもこんな馬鹿げた要求を飲んでもらえるとは到底思えない。別のアテを探すしかない、そう諦めかけた時だった。


「金は用意してもいい、そのかわり一つ条件がある」


 その言葉に揚羽は驚き思わず顔を上げた。一体、どんな条件なのだろうか……? 期待と不安でぐちゃぐちゃになっている私の表情を鼻で嘲笑うかのうように彼は笑みを浮かべた。


「一千万でお前自身を俺が買い取ろう、そのかわりお前の全ては俺の所有物しょゆうぶつとなる」


 その言葉にドクンと心臓が高鳴り、直後握りつぶされたような鈍い痛みを感じた気がした。


「俺がお前の主人で、絶対だ、逆らうことは許さない」


 李音の鋭く冷たい瞳で射抜かれて、今この状況が少し怖くなった。


 つまり、それは私の人生の自由を奪うということだ。一千万なんて金額、一生を使ってようやく返せるかどうか……。


 そりゃ、タダで無条件でそんな借金を肩代わりしてくれるとは思ってはいなかった……けど


「つまり俺が死ねといえばお前は死ななければならない」


 こんな非道理的なことを許して良いものだろうか……? 冷や汗が頬を伝い、返答に困っていると、ふと脳内に拓也の顔が浮かんだ。


 ……そうだ、拓也なら、拓也なら大丈夫。だってこの借金だって拓也のため……。例え私が他の人の所有物モノになったとしても……彼となら乗り越えられるッ!


「それが嫌なら、そんな男とは別れ––––」


「いえ! わかりました」


 何か言葉を続けようとしていた李音の声を遮り、揚羽はさらに続けた。


「その条件、お飲みします」


 唇を強く噛み締め、私は今日、李音様の所有物モノになると誓った。

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