ウチチのチ

そうざ

CHI of Uchi-chi

              1


 店のシャッターを開け、電飾看板を出す。〔ブラッディ・スタンド〕というワインレッドの文字列がぼんやりと灯った。

 少し動いただけでもう汗ばむ。時刻は午後八時前だが、駅前のバスターミナルは未だに昼間の余熱によどんでいる。そそくさと店内のクーラーを点けた。カウンターだけの小さな店は、程なく冷気に包まれた。

 やがて三人組の若者が駆け込んで来た。皆、肌が不健康に焼けている。まだ陽の高い内から防護服も着ずに遊び回っていたのだろう。近頃の若者は向こう見ずだ。

「いらっしゃいませ」

「俺、ブラッディ・オレンジ」

 言葉遣いもなっていない。

「ブラッディ・オレンジですね」

「じゃあ、俺はブラッディ・シークヮーサーで」

「はい、ブラッディ・シークヮーサーですね」

「ブラッディ・トマト!」

「ブラッディ・トマトですね、かしこまりました」

「今って只で飲めるんでしょ?」

「はい、サービス週間ですので、ブラッディ系のお飲み物は無料です」

 グラスにそれぞれのオーダー品を注ぐ。どのドリンクも似たような赤色だから間違えないように気を付ける。

「カーッ! やっぱシークヮーサー最高!」

「オレンジの方が良いって」

「何言ってんだよ、トマトが最高峰だろうが」

 散々ご託を並べた挙げ句、彼等は少しずつ飲み残して出て行った。

 今みたいな時代に〔ブラッディ〕の有り難味を感じろというのは無理があるのだろう。それは若者に限らない。昔を知っている年配者も今や同じような有り様だ。

 僕は、排水口に流れ残る赤い液体をぼんやりと見詰めた。


             ~◆~


 かつてこの国は慢性的な血不足であった。

 文字通り血に飢えた者達が夜毎、街を徘徊しては手当たり次第に天然ブラッディの〔採血〕を行った。それは猟奇そのものであった。

 嘗て我々は、愚劣、愚昧の代名詞だったのである。

 ――『貧血の矜持』まえがきより――


              2


 直ぐに閑古鳥が鳴き始めた。いつもの事だが、廃業の誘惑に襲われる。こんな商売に未来はない事は分かっているのだ。

 こんな時は読書に耽るようにしている。つい最近、皇立図書館の人文科学の棚で見付けた分厚い一冊は中々読み応えがある。

 現在の目で見ると信じ難い古い常識がある。そういうのを目の当たりにすると、此処ここではない何処どこかに迷い込んだような至福の心持ちになる。


              ◆


 その頃、領土を二分する程の大論争が起きた。〔採血〕は下劣だ、野蛮だ、このような悪習を容認したままではいつまで経っても我々の文化水準は底上げ出来ない――そんな論争が各所で頻発し始めた。

 この風潮に逸早く行動を起こしたのは、先史世代を中核とする不満分子である。徒党を組んでは至る所で実力行使に打って出た。それは、下劣批判には下劣を、蛮行批判には蛮行を、という一種の政治運動であった。世に言う〔打ち血〕であるが、この無軌道な扇動が後の〔血の革命〕の火に焚べる薪となる事は、大いなる歴史の皮肉と言わざるを得ない。

 ――『貧血の矜持』第1章「革命前夜、抵抗としての〔打ち血〕」より――


              ◇


 耐熱硝子の嵌った窓から人影が透けている。

 よれよれの服を着た老年の男性だった。酔っ払いのようにも見えたが、舗道の熱気にやられた浮浪者かも知れない。

 僕は表に出て思わず駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

「……どうして見ず知らずのお前に……大丈夫かどうか、問われなきゃ……ならんのだ?」

 老人は息絶え絶えで、余り大丈夫そうには思えない。

「取り敢えず店の中にどうぞ」

「店……?」

「ブラッディをご奉仕させて頂いています」

「ブラッディねぇ……」

 老人は何故か微笑んだ。

 肩を貸したが、これと言って異臭は放っていなかった。

「お水をお持ちしますね」

「ここはブラッディを飲ませる店なんだろう?」

「あ、はい、かしこまりました」

 老人には静かな威圧感があった。提供した商品を口にすると、早速その威圧を発露した。

「こりゃ……混ぜ物だな」

「はぁ」

 今日日きょうび、ブラッディは果物のエキスを混ぜて飲むのが当たり前だ。生のままでは飲み辛いという消費者が圧倒的に増えている。

「生の方が宜しいですか?」

「当たり前だ」

 選り好みが出来るくらい意識はしっかりとしているようだ。

「しかもこいつは……紛い物の混ぜ物だ」

「マガイモノ?」

「人工の味がする」


             ~◆~


 人工ブラッディの登場が〔血の革命〕への水先案内人となった事実は今や常識であり、正史である。これに異論を唱える者はなかろう。

 どんなに崇高な志に裏打ちされた思想であろうと、現実主義リアリスト然とした民衆が何の実益よすが勝算かちめも担保されていない革命に身命をせるものではない。例え〔採血〕の残忍性を客観視し得たとしても、我々はブラッディなくして生き長らえる事は出来ぬ宿命を負う憐れな存在なのである。

 ればこそ、主要な成分は変わらず味も遜色がない上に〔採血〕の労力も要さぬ人工ブラッディに軍配が上がるのは必至である。

 ――『貧血の矜持』第2章「くて革命は必然となりし」より――


              ◇


 人工物と言っても、長年の研究で味や色合い、成分までもが天然物と何ら遜色のないものが製造されている。舌で判別するのは不可能に近い。

 何でも偉い学者の長年に亘る研究の成果らしいが、今のところ『貧血の矜持』にはそれらしい人物は登場していない。

「あのぅ……お客様は天然物をお飲みになった事があるのですか?」

「飲んだ事がなくて、どうして違いが分かる?」

 老人はブラッディを生のまま口にしていた前史世代なのだろう。

「美味かったよ、天然物は……」

「僕の世代以降は人工しか知りませんからね、今のブラッディで満足してます」

 老人はまだ何かを言いたに僕をめ付けたが、ブラッディと一緒に言葉を飲み込んだ。


             ~◆~


 人工ブラッディの大量生産が始まると、水の低きに就くが如し、市井に満ち溢れた。この段階で既に〔血の革命〕は完遂していたと見る識者は多い。

 間を置かずして、〔採血〕及び天然ブラッディの飲用が全面的に禁止されるとの噂が囁かれるようになった。当初は、人工ブラッディの更なる収益を目論む快く生産業界が流言させた飛語と目されていたが、皇宮庁が出し抜けに〔採血〕の禁制区域や禁制時間帯を発表するに至り、民衆の杞憂は忽ち現実味を持ち始めた。

 こうした流れに最も素早く、そして激しく抗したのは、またしても先史世代である。天然ブラッディに並々ならぬ拘りを見せる彼等は下劣、野蛮の批判を物ともせず〔駆け込み採血〕を急増させた。

 りとて、それは窮鼠猫を噛むの如き、はなから敗北を喫された抵抗であった。如何に余剰に確保しようとも、天然ブラッディは長期保存の利かぬ代物である。この時期に倍増した〔打ち血〕の認知件数は、彼等の捨て鉢な心性を如実に物語るのである。

 ――『貧血の矜持』第3章「天然・人工を巡る飽くなき反目」より――


              3


 夜はたけなわを迎えていた。バスターミナルに行き交う人影にはこの店が見えないのかと思ってしまう程、僕達は街の賑わいから完全に蚊帳の外だった。

不躾ぶしつけな質問ですが……」

 カウンターの内側で賄い料理を作りながら、僕は思い切って老人に訊ねた。

「……何だね?」

「〔採血〕をされた事はおありですか?」

「魚に泳いだ事があるかどうかを訊くのかい?」

 老人はグラスの液体を揺らしながら話し続ける。

「あれは文化だった。儀式であり、身過ぎであり、誇りでもあった」

「生きる為の必要悪――」

 僕は慌てて口をつぐんだ。思わず口が滑ったのは『貧血の矜持』の影響だろうか。

「知らんだろうが、〔駆け込み採血〕なんてのが横行してな、あれは愚の骨頂だった」

「知ってますよ、〔採血〕が禁止になる前にこぞって人間ジンカンを襲ったという……」

「本来〔採血〕は優雅なものだった。だのに、一気に下卑たものになっちまった。世も末だと思ったな」


             ~◆~


 現代に於いても、一部の回顧派に依って夜な夜な〔採血〕が慣行されているとの風聞が絶えない。

 皇宮庁近衛隊が秘密裏に進めていた回顧派一掃作戦(通称〔赤い打擲ちょうちゃく〕)が白昼の街区にて一斉遂行された事は記憶に新しい。この一件を以って回顧派は事実上、壊滅したと言われている。

 ――『貧血の矜持』第4章「世は住めば都となりしや」より――


              ◇


「あの頃、街は真っ赤だった……色んな意味で」

 それだけ言って老人は言葉を継がない。遠い視線から察するに、唯の独り言だったのだろう。

 夜の東側が白々としている。一晩中、老人と話し込んでしまった。

「さて、そろそろ……」

「傘をお持ちになりますか?」

「傘?」

「お宅に帰り着くまでに陽が高くなってしまうでしょうから」

 老人はやっと意味を了解したようで、苦笑いをした。

「この年齢としになると、日焼けなんかどうでも良くなる。面の皮が厚くなる一方だ。長生きし過ぎた」

 表まで見送りに出ると、通りの彼方から騒がしい一団の気配が近付いて来た。

 若者のようだ。笛や太鼓でよく分からない音頭を奏でながらリヤカーを曳いている。

「何でしょう、こんな夜明けに」

 老人は僕の問い掛けに応えず、じっと一団を凝視している。

 リヤカーの行列には樽のような物が幾つも積み上げられていてとても重そうだが、若者達はやけに楽し気だ。

「今時、〔血祭り〕ですかね?」

「……〔打ち血〕だ」

「えっ?」

 老人の濁り掛けた瞳に光が見えた。

 やがて一団は店の前を通り過ぎ、人影が疎らになったバスターミナルの真ん中に到着すると、リヤカーの樽を開け始めた。何処に隠し持っていたのか、大きな柄杓ひしゃくを天高く掲げ合い、雄叫びを上げた。

「何にでも様式ってもんがある。こりゃ本物だっ、往時の〔打ち血〕そのものだっ。今時の若者も捨てたもんじゃないなっ」


             ~◆~


 打ち血(ウチチ):〔採血〕した天然ブラッディを所構わず市中に散布する違法行為の事。

 原初は先史世代の無軌道な反抗として位置付けられたが、やがて形骸化し、微量の人工ブラッディを用いるに留めた〔血祭り〕との呼称で合法化されるに至った。政治運動の一形態が祭事へと変質しつつ広く馴致された稀有な例である。

 但し、各方面で法令遵守や経済的合理化の進む今日こんにちに於いては〔血祭り〕も衰退の一途を辿っている。

 ――『貧血の矜持』附録「用語解説」より――


              ◇


 僕は店内に取って返し、読み掛けの『貧血の矜持』を捲った。

 カバーの袖に著者のモノクロ写真が載っている。著者近影とはなっているが、この古書の出版年はだから、当然その姿は現在よりも若々しい筈だ。しかし、どれだけ皺が寄ろうとも、髪が薄く成ろうとも、面影は嘘をかない。

「やーれ! ウチチのチーッ!!」

 しゃがれた声が熱し始めた夜明けの空気を震わせている。

 老人はいつの間にか若者達の輪に加わっていた。と言うよりも、すっかり中心人物と化し、皆を扇動していた。

 当の若者達は何の躊躇もなくそれを受け入れている。百年以上も隔てた世代の差を感じさせない見事な一体感だった。

 もう辺り一面がブラッディの海だ。

 建物の窓も外壁も、看板も標識も、電柱も信号も、外灯もバス停も、街路樹も植栽も、違法駐車のバイクも自転車も、路面も夜そのものも深い赤に染まった。見飽きた筈の日常が消えてしまった。

「そーれ! ウチチのチーッ!!」

「やーれ! ウチチのチーッ!!」

「そーれ! ウチチのチーッ!!」

「やーれ! ウチチのチーッ!!」

 躍動する人影から立ち昇る熱気が朝日の気配にもやもやと浮かび上がる。いや、焼けた皮膚が煙を吐いているのかも知れない。が、何方どちらでも良い。

 今日も暑くなりそうだ。

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