2
足早に目の前を駆けていった男性が、寒い寒いとコートの襟を立てていた。キリエはぼんやりと街角に立ちながら、今日も雪は降らないなと空を見上げる。
彼女には死神以前の記憶がない。
姉のイザベラ曰く、死神の多くは元人間だという。だから外見が人間の容姿をしているのだそうだ。
けれどいくら外側を人間に真似てみても、記憶という中身がなければ人形と大差ない。姉は少し記憶があるそうだ。それは死神の中では珍しい方で、だから他の死神とは少し違った考え方をしているのかも知れない、と姉自身が言っていた。ただ、キリエが知る死神は姉以外にいないので、姉の言葉を全て信じるならば、という条件付きだった。
死神になってから何度目のクリスマスイブだろう。この時期、人間はやたらとカップルになりたがる。死神には体温がないけれど、人間は人肌の温度が恋しくなるそうだ。
夜の帳が降りると、少しアルコールの入った男たちが騒ぎながら歩いていく。二人の時間を楽しんでいたカップルを見つけ、からかいの言葉を投げつけるが、二人はそれを意に介する様子もない。男たちはそれが気に入らないようで、二人を取り囲むと、あれこれと文句を言い始めた。
――くだらない。死ねばいいのに。
そういう場面に
どこに消えるのか分からないが、いつも不意にいなくなる。一人では死神の仕事はできないというのに無責任だ、と一度抗議したことがあるが、姉は「事情があるのよ」と言うだけだ。
「わたしも事情ほしい」
つまるところ、キリエは暇を持て余していた。
「な、何なんだよ、てめえは」
先程の男たちだ。まだカップルに絡んでいた。その集団に、猫のような細い髪をした肌の白い少年が、まるで見えない壁に突っ込むようにして割ってはいった。
「何でもない。ただ、死にたいだけさ」
薄い笑みを浮かべると、男の一人が少年の頬を殴りつけた。カップルの女性が叫び声を上げ、それを聞きつけた警官が駆けてくる。
「やべっ」
男たちはすぐ様その場から逃げ出したが、頬を赤くした少年は大の字になってアスファルトの上に倒れてしまった。
「あの、大丈夫ですか」
その少年に、スーツ姿の女性が声を掛けた。年齢は三十前後だろうか。ハンカチを取り出して、彼の唇に当てる。
「ありがとうございます。けど、構わないで下さい」
上半身を起こした少年は心配そうにしている女性に寂しそうな笑みを見せ、続けてこう言った。
「僕はただ、死にたいだけなんです」
――死にたい。
そう聞いたキリエは、いつもならすぐに「こいつ殺そう」と言い始めるのに、何故かそういう感情が浮かんでこない。少年のやや青みがかったガラス玉のような瞳、薄く
少年はひょっとするとまだ十代かも知れない。小柄で、若く見える外見だから、二十歳を超えている可能性もある。それでもスーツの女性からすれば随分と年下だろう。
「何があったのか知らないけど、そんなことは軽々しく口にしてはいけないわ。そうだ。何か温かいものでも飲みましょう。どこかこの近くで」
「お姉さんの家がいいな」
女性の胸に顔を預ける形になった少年は、ふっと力の抜けた笑みを見せ、そう言った。二人は立ち上がり、少年は女性にもたれかかりながら、歩いていく。
「キリエ?」
気づくと姉がいた。
「どうかした?」
「ねえ、姉さん。わたし、初めて殺したくない人を見つけた。これ、何なんだろう」
不思議な感情だった。
「あの男? 駄目だよ、あれは。殺さないと」
今までに聞いたことのない、低く、真面目な姉の声だった。
「姉さん? ころ、すって」
「そう。あいつは殺す。これは決定事項よ」
姉の目に笑みはない。じっと後ろ姿を見据え、唇をきつく結んでいる。
「なんで? いつもなら慎重に考えて、ちゃんと死にたいかどうか判断すべきだって言うじゃない。それなのになんで彼に対してはそういうの、全然ないの? 分からないじゃない。何があったか。あの人だってきっと、いつもみたいに本気で死にたい訳じゃないよ。だから」
「死にたいって言ってるから殺す訳じゃない。あれは、死神案件よ」
いつもとは違う。いつも以上に譲らないという迫力があり、キリエは後ずさった。姉のことを初めて怖いと感じたのだ。
「いい、キリエ。彼は生かしていてはいけない存在なの。だから一緒に」
「嫌!」
大きく首を振る。
「わたしはあの人を殺したくない。別に他の人でいいじゃない。たとえ誰かを殺さないといけないとしても、彼である必要があるの? 人間なんていっぱいいるし、死にたいやつだって山ほどいる。ねえお願い。今回だけは見逃してあげて」
姉はぴくりともしない。じっとキリエの目を見つめている。厳しい表情で、一瞬何かを言おうと唇が開いたが、首を振り、歩いて行ってしまう。
「姉さん!」
けれどその声は届かず、姉の姿は闇に溶けるようにして人混みに消えてしまった。
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