第3話 -2
なぜ、この場所なのか。
頭を抱え、絶望に体が震える。
目の前には、見慣れた広大な農地が広がっていた。
これまで何度もこの風景を撮ってきた。雄大で美しい世界に感動し、この世界を写真に納めてきた。しかし、目の前に広がる風景はかつてのような美しい世界ではない。
「みんな死ぬのか」
せっかくこの地に来た神将は帰ってしまった。
ここのことを知らずに。
父も、母も、兄弟も、村の人たちも全員死ぬ。
目の前に広がるのは茶色の土の世界しかなかった。これから種植えの季節となり、命が湧き出るほどの明るい世界が広がっているはずであった。
今、男の目には死しか映らなかった。
とても小さな虫が男の顔の横を飛んでいく。その虫を横目で追い、体がぶるぶると激しく震え、抑えることができない。恐怖と絶望しかなかったが、それでも何かをせずにはいられなかった。男は持っていたカメラで何度も写真を撮った。何度も何度もシャッターを切った。
そのとき、上空で爆音が響きわたり、男は空を見上げる。
「なんだ? 隕石? 」
弾丸のように一直線に真っ逆さまに落ちてくるそれは、神話の黙示録に出てくるような光景であった。瞬きする間もなく、それは激しい爆発音とともに茶色の土の世界へと落ちた。
寮の部屋に帰ってきたときはすでに夜の九時を過ぎていた。
静まり返った建物の中に入り、自分の部屋の鍵を開けて、疲れた気持ちでソファに座り込んだ。
ベティーがいる女神の寮には、ベティー以外に三人の女神しかいないと聞く。十部屋ある建物だが、四人の女神しかいないのでほとんどが空き室であった。だからなのか、とても静かだ。
ベティーはこの寮に入ってから、誰にも会ったことがない。三人の女神はニューヨーク部隊に所属する女神だと聞いているので、ベティーとは接点がなく、紹介もされなかった。そもそも初めて機関に来たときに受付で指定された部屋で待機し、その場に三人の年配の男性が来て、ひととおり機関内の建物と規則に関しての説明を受けただけであった。その説明の時に、ここの場所の地図と鍵を渡されて、自分で行くように言われただけである。
ベティーの住居はソファと小さなテーブルが置けるぐらいの少し狭い部屋に、ベッドと机、小さいタンスが備え付けられた部屋の二部屋と、小さなキッチンがついていた。贅沢なことに脱衣所があり、トイレとバスルームは別々に備え付けられていた。ベティーにとっては十分な住居であった。
「今日は、いろいろなことがありました」
あのあとホレスに連れられて病院に行き、ひととおりの検査を受けてきた。血液検査、CT検査、そして医師の診察だ。医師はおじいさん先生で、驚いたことに神将であった。特殊な施設で育ち、学校も女神の学校であったから一般人の医師に診てもらったことなどないが、それでも神将の医師に診てもらったのは初めてであった。これまでは神将ではないが、特殊な力を持っている医師たちが、学校にも施設にも常駐していた。
ベティーはおじいさん先生から少し休むように言われ、検査のあとベッドに横たわっていた。ぐっすりと眠ってしまい、気が付いたら夕方になってしまっていた。起きて検査の結果を聞き、病院の食堂で食事まで済ませて帰ってきたところだった。
おじいさん先生に優しく慰められ、いろいろあるだろうがゆっくり機関になれればよいと言われ、ベティーは情けなくも少し泣いてしまった。自分では一生懸命やっているつもりなのだが、年上の神将や女神に役に立たないと言われ、許せないと言われとても不安定になっていた。
機関に来て3週間も経っていないのに、ベティーはどうしてよいのかわからなくなってしまった。
それでも、女神をやめて機関を出ることはできないのだ。
今日、初めて高位の女神と話をすることができたが、女神シリアはベティーにとって雲の上の存在すぎて、次に会うことがあっても話しかけることができないように思えた。周りに同じ歳の友人もいなく、女神のことが知りたくても聞く人がいないため、途方に暮れていた。
「しっかりしないと」
大きく息を吸って、自分に言い聞かせるように呟くと、少し気持ちが落ち着いてくる。
今日の午後は事務局での仕事ができなかった。明日はしっかりと与えられた仕事を頑張ろうと考える。明日の事務局での仕事は午前中のみで、午後は女神の勉強をするように言われていた。一日事務仕事をするのが本来のベティーの仕事ではないことはわかっているが、誰かに教わるわけでもなく、自由に学習するように言われ困っていた。そのようにホレスに話したところ、図書館に行くことを勧められたのである。
機関の図書館にはさまざまな書籍が収集されているが、中でも魔物関係の書物が膨大にある。ベティーは魔物に関する勉強も女神として必要なことだと、機関の施設に慣れることを兼ねて図書館や資料館に行くことにした。
明日は図書館に行き、何を勉強しようか、どのように調べようかとベティーはそんなことを考えながら、テーブルの上に置いていたタブレットに手を伸ばした。タブレットは機関から渡されたものである。携帯電話でさえ持っていないベティーにとって、このようなものは使い慣れないが、必要なことだと思い、なるべく操作をして慣れるようにしていた。それでも、大体はニュースを見るぐらいしかまだ使っていない。
いつものようにニュースを見ながら、一般社会のことも勉強する。女神は一般社会から隔離された存在であるが、普通の社会を知らないことがいいことではないこともわかっていた。
タブレットを操作しニュースを読みながら考えるのは、五日前にジョンから聞いたカンザスの話だ。神将たちが調査して魔物ではないと判断したのだから、それで終わりのはずであった。それでもベティーは、もし魔物の仕業であったらどのような魔物が現れるのかと考えていた。
百人もの人が一晩で亡くなる事態になるとすれば、出現した魔物は相当な力を持った魔物だろう。異なる世界の魔物がこの世界に来るにプロセスが必要だ。こちらに行こうと思って行けるのなら、この世界はもっと魔物で満ち、生きている者たちはとっくに滅亡している。
大きければ大きいほど、この世界に入ることは困難であった。しかし、虫ほどの小さな魔物であれば、世界に空いた小さな隙間をぬってこちらに来ることはそう難しいことではない。さすがに小さな虫ほどの魔物では、人一人の命を奪うことなどできない。魔物は小さくても瘴気を発しているため、憑かれた者は瘴気により精神を少しずつ病むことがあるだろう。しかし、それだけでは死に至らしめるのは無理だ。
魔物が一人の命を奪っただけで、その場には相当の瘴気が残っている。
百人ともなると尋常ではない瘴気が発生し、普通の人ならその場所にいるだけで発狂し、最悪命がない可能性もある。本当に魔物が現れたならば相当の瘴気が残っていただろうし、魔物の、いや、古の時代から存在する悪魔と呼ばれるものたちの痕跡が残らないはずはなく、神将たちが見過ごすはずがない。
ベティーはタブレットでカンザスで起こった事件を検索してみた。すぐに記事を見つけて読んでみると、ジョンが話してくれた通りに、大昔に埋めたプロパンガスが地中から漏れたことによる事故死と書かれてあった。それ以外では小型の飛行機事故が三日前に起こり、こちらもパイロットの錯乱による操縦ミスによる墜落の事故として片づけられていた。それ以外にカンザスでの目立った事件は見つからなかった。
「ふう」
なぜかわからないが、ベティーはこのカンザスの事件がとても引っかかった。心に引っかかる理由は単純だった。
「ニューヨーク機関のそれも神団まで持ちこまれるなんて」
いくら人手不足でも、カンザスは地方都市コロラド機関の管轄なのだから、その地区担当の神将がいるはずである。それなら、その現場に行くのはコロラド機関の担当神将だ。神将であれば、その現場に魔物が現れたかどうかわかったはずであった。大都市の神団に要請を依頼する前に一度でも現場に行けば、これが魔物がらみの事件なのかそうでないのか判断ができるはずだ。
なぜ、ニューヨーク機関に依頼したのだろうか。本当に魔物はいなかったのであろうか。しかし、この件は第三部隊の神将が現地に行き、調査して魔物がらみではないという結果となっている。
ベティーは何度も記事を読み、それから少年が見たという黒い虫も調べてみた。
農耕地にいる虫といったら真っ先に思い出すのがバッタだ。大群発生は、これまでも起こっているのだから、少年が見たものが本物の虫で魔物とは限らないのだ。やはり、魔物とは関係ないのだろうか。
タブレットの電源を切ると、息を吐き出した。
「調べることに決めました」
今回の件が魔物と関係ないとしても、実際にあった事件に基づいて調べる方が魔物を知る上でとても勉強になるだろう。それに、魔物ではないと判断された理由を知ることができれば今後の参考になると考えた。
「百人もの命を奪う魔物はどんな魔物なのかを調べます。そのような力を持つ魔物がこの世界に現れる要因は何か‥‥」
明日はこの内容で文献を調べてみることにしよう。ベティーはタブレットをテーブルに置くと、寝る準備をするためにソファから立ち上がった。
翌日、午前中の仕事を終えると、午後はさっそく図書館に来た。
さすが大都市ニューヨーク機関の図書館である。とにかく広く、蔵書が多い。蔵書数は五千万を超えていると聞くが、図書館内で迷子になりそうで、おのぼりさんのようにキョロキョロしてしまう。
ベティーは案内板を見ながら、どこから手をつけてよいのやら迷いながらも、まずは事件の内容と類似する書籍が置いてある棚を探すことにした。蔵書の検索機械が置いてある部屋に入り、一番端っこにある機械の前に座ると、機械に自分のIDカードを差し込んだ。キーワードを入れて絞り込まないと、書籍を探すのに一日を建物内の移動だけで終わりそうだからである。
「キーワードをどうしよう。一晩で亡くなる、あとは瘴気がない、魔物絡み? 」
なんとなく思い浮かんだことを入力していく。そんな漠然とした情報で検索して出てきた書籍は二冊しか出てこなかった。検索で出てきた二冊をどのような本なのか概要を調べた。
「一晩で亡くなる、ああ、瘴気が原因と書いてある。この本は少し違うかな」
キーワードを追加して魔物絡みでプロパンガスとも入力してみた。これに関しては、何も出てこなかった。
「魔物を見た人とか」
黒い虫を大量に見たという少年が気になる。少年以外に誰も見ていないというのなら、その少年だけが見えたと考えられないだろうか。魔物によっては見えるものと見えないものがある。小さいものであれば、目に見えない可能性があった。
「あ、これだ」
それは過去の超能力者たちの事象が書かれてある本であった。スプーン曲げや、透視、瞬間移動などの実験データらしい。
機関には、昔でいうなら超能力者と呼ばれた者たちが集まっていた。それどころか、そのような能力を少しでも持っていないと機関に入ることができなかった。そのため、ベティーにとって能力者たちはなじみのある者たちであった。特殊な能力を持った人は世界には多く存在するし、今でも一般社会の中にもいる。だから、その少年が見えないものが見えていても、何もおかしなことではない。少年がそのような能力を持っているのならば、少年だけが見たと言っても嘘とは限らないのだ。
「でも、第三部隊の神将様が調べているから」
神将たちは、少年が能力者であることも踏まえて調べているはずだ。その上で神将たちが導き出した答えは、少年は空想癖があり、見たというものは空想だったということである。特殊能力を持った者は、同じように能力を持った者を判別できる。特に神将は能力者たちに比べて、次元を超えた能力を持っている。神将の感覚が間違うはずはない。
何度もキーワードを変えて調べても、目新しい内容は出てこなかった。べティーは端末を操作してログアウトをすると、検索機械からカードを取り出して館内を見て回るために席を立った。カンザスの事件に関連する本は見つからなかったが、図書館の中をいろいろと見て歩こうと思ったからだ。
案内図では上は五階まであり、地下は二階まであった。保管されているのは蔵書だけではなく、貴重な標本などもあるようで、館内を全部見て歩くには二、三日かかるのではないかと思うほどとにかく広かった。これだけの立派な施設だというのに、人がほとんどいなく、この建物に入ってから数人しか見ていない。ベティーがいる場所は、天井が二階建てよりも高く、広大なホールにたくさんの本棚が設置された開かれた場所で、歩くと足音が響くほど静かであった。
ベティーは忍び足で、恐る恐る足音を立てないように進んでいった。
「ベティーくん」
突然、後ろから声を掛けられ、ベティーは思わず小さく飛び跳ねた。
ドキドキする胸に手をあてながら振り返ると、第三部隊副隊長ヨハンが表情を欠いてじっとこちらを見ていた。その後ろには第三部隊の神将が二人いた。ベティーの目は二人のうちの一人、それも横方向に動くポケットに目が行ってしまった。
「図書館にはどのような用事だ? 」
副隊長ヨハンが話しかけてくるため、必死にポケットから視線を逸らして話に集中しようと思うのだが、激しく横へと暴れているポケットがどうしても気になってしまう。その困った人の隣にいて優しくほほ笑んでいるもう一人の神将、八神将ジョイスは笑顔のまま、七神将チャックに注意した。
「今日は朝から、それ動きすぎですよ。ベティーくんだけではなく、私も気になります。少し抑えた方がいいでしょう」
感情のない、死んだ魚のような目をした七神将チャックは、横揺れが激しい自分のポケットを見て、一言、「捕食中だから」と答えた。ベティーは余計にポケットに釘付けになる。捕食中とはどういうことなのか、何がその中に入っているのだろうか聞きたいのをぐっと我慢した。
「チャック」
ヨハンが名前を呼ぶと、チャックは小さくため息をついて無造作にポケットの中に手を突っ込んだ。ぴたりと動きが止まると、それ以上動くことはなかった。いろいろと聞きたいことは満載だが、これ以上あのポケットの中身を考えない方がいいのではないかと思い、ベティーはようやくヨハンに意識を集中させることができた。
「ヨハン様、こんにちは。あの、女神の勉強のために図書館に来ました」
ヨハンの表情のない顔が、少し頷いた。
「なるほど。どのようなことを調べに? 」
カンザスで起こった事件が気になるとは言えず、魔物の種類を調べにきたと答えることにした。さまざまな魔物がいる中で、虫の魔物を調べようと思ったのだから嘘ではない。
「魔物のことを調べに来ました。ヨハン様たちは何かを調べにいらっしゃったのですか? 」
「図書館は研究所と隣接している。研究所では魔物の生態や特性を調べている。私は研究所で研究も行っており、これから調査のために持ち帰った魔物関連のものを見に行くところだ」
機関にはさまざまな部署が存在しており、研究所もその一つであった。
古来より魔物はこの世界に姿を現し、多くの神話伝承に登場している。
魔物たちをこの世界に引き寄せるものは、人の欲望や思いが関係していることが研究で明らかになっている。呪術、悪魔召喚、悪魔祓い、そのような闇の儀式が魔物たちをこの世界へつなげる足掛かりになっており、小さな呪いでさえも魔物を呼ぶ上では正しい儀式になり得る場合もある。
神将や女神がこの世界に現れてから、世界機関ができた。
機関は古来からの神話伝承に関係する文献、儀式、宗教、信仰、それだけではなく空間や化学、確率統計や数学に至るまで研究し、魔物の脅威から世界を守るために魔物たちを分析してきた。
神将たちは身体的にも超人であるが、頭脳も超人である者が多い。その頭脳であらゆる角度から魔物を研究し、この世界から魔物を駆逐するために多くのデータを集めている。このように常に魔物を研究している神将たちが下した判断であるのだから、カンザスの事件は魔物とは関係ないのだと改めて思った。
「さまざまな魔物がいる。特定の魔物を調べているのか? 」
ベティーはその質問に少し躊躇したが、正直に答えることにした。
「虫の魔物を調べようと思っています」
「虫か‥‥。この図書館に昆虫の標本があることを知っているか? 」
「‥いいえ、あるのですか?」
「もちろん、ある。見たいか?」
「見られるのでしたら見たいです」
これだけの規模の図書館なのだから、普通に昆虫標本があってもおかしくないとベティーは納得した。全部ではないが、かなりの標本があるというヨハンの言葉に従い、一緒に展示されている部屋へと向かうことになった。
子供の時に父に連れていってもらった町の博物館で見た昆虫展では、標本だけではなく、生きている珍しい昆虫も展示されていた。そのとき、ベティーは別に昆虫が見たかったわけではないが、弟がとても昆虫が好きで、弟が父にねだって昆虫展を見に行くことになったのだ。それを懐かしく思い出しながら、奇麗な色をした蝶やゲンゴロウなどを見ることができ、意外に楽しく見学できたので、虫に対して嫌悪はなかった。
展示されているエリアはどうやら、図書館の外れにあるようであった。
蔵書の空間から出て廊下へと入り、しばらく歩くと一番奥の部屋がどうやらその部屋のようであった。ヨハンが扉を開き中へと入っていくので、ベティーも後に続く。その部屋はなかなか広く、ベティーの部屋の十倍の広さがあった。そして多数の展示物が壁に設置されたガラスケースに入れられて展示されており、その展示物がどのようなものであるかを知って、ベティーは思わず顔をひきつらせた。
「これが胡蝶と呼ばれる、蛾の魔物だな」
五歳児ぐらいの大きさの蛾に手足が生えており、蛾とどこか人と混じったような顔は醜悪ではっきりといって気持ちが悪い。
「これは昆虫でいえば、カマキリに近いな。カマキリのように何百万の卵を人の体に生む。横にあるのがその繭だ。なかなかの保存状態だ」
ヨハンは繭を素手で撫でていた。死んでいるとはいえ、触れられるものではない。ベティーは周りを見回し、ここが魔物の昆虫標本を集めた場所であることに気が遠くなりそうであった。
いくら死んでいるとはいえ、魔物の死骸である。はっきり言って怖い。そして素晴らしい博識で説明してくれるヨハンの顔は無表情であるが、いつもと違って言葉からはどこか嬉々とした感じを受けた。ベティーは、神将が高位になればなるほど一般人とは相いれない感性を持つという世間の通説に心から同意した瞬間だった。
ベティーの家族は両親を含め、全員一般人であり、一族の中で初めて出た女神である。そのため女神や神将たちの世界より一般社会の方になじみがあった。ベティーの感覚と常識は一般人の方が近いのである。
「ベティーくん、神将は全員、あんな変人ではありませんよ」
後ろから聞こえる穏やかな声に振り返ると、八神将ジョイスが優しい眼差しで首を左右に振っていた。
「神将が全員、素手で魔物を愛でるような変人と思ってほしくありません」
ベティーは思わず、死んだ魚の目をしたチャックを見た。ジョイスはそれに気が付き、優しく否定する。
「チャックは動物使いなだけで、ポッケに入っているのはさすがに魔物ではありませんよ。ヨハン様はたまに、ポケットに魔物のホルマリン漬けの試験管が何本か入っていることがありますので‥‥まあ、最悪なのはどっちもどっちですね」
さわやかな笑顔に暢気な声であるが、話している内容はどうしようもなくえぐい内容であった。やはり神将は全員、変わっているのかもしれない。
ヨハンを見ると、まだ魔物の標本を前で説明をしていた。ベティーは標本から距離を取った。陳列されている標本は討伐したときのものなのか、損傷がひどいものもあり、かなり気持ちが悪い状態のものも多いからだ。
魔物は人の目から見て恐怖を駆り立てるものが多い。それはキマイラが多いのだ。虫と人、虫と何かの動物、虫と何かの植物などを掛け合わせた姿が多い。それは人に恐怖と嫌悪を与える。女神として勉強をしてきたベティーでさえも、魔物の姿は見ていたいものではない。はっきり言って気持ちが悪い。
「ベティーくん、虫の形をした魔物もこのようにたくさんある。それぞれ特性があり、能力も出現方法も違う。そして、これが一番こちらに来やすい魔物でもある」
小さなガラスケースに入っている、小さな蝶の羽を持った女の姿をした三センチぐらいの魔物の標本を目の前に見せながら、ヨハンの美しい青い瞳がベティーを覗き込んだ。それは上半身は三十代ぐらいの平凡な容姿で普通の女性の姿をしているが、下半身は蝶の体をしていた。首は変な方に曲がり、白目をむき、舌を出して壮絶な表情であった。
ベティーはそっと目をそらしながら、ヨハンに質問した。
「こちらに来やすいのは、小さいからですか? 」
「そう、魔物としてもそれほど力はなく、世界に隙間さえあればこちら側に入って来られる。比較的この世界に入ってきやすい魔物だ」
手に持ったガラスケースをほれほれと、ぐいぐいベティーの目の前に持ってきて見せるヨハンを、止めもせず、黙って見ている二人の神将。もし、ここに隊長ホレスがいれば、このデリカシーと常識のない行動を取る三人を有無も言わせずに叱っていただろう。しかし、残念ながら止める者は誰もいなかった。
ベティーはぐっと口をへの字にしながら魔物の標本から目をそらし、虫の魔物の中で人の命を奪える魔物がいるのかを聞いてみることにした。
「虫の魔物は弱いですが、人を殺めることができる虫の魔物はいるのでしょうか?」
ヨハンは標本を手の中で器用にぐるぐるまわしながら、少し考え込み、うむっと唸った。
「一匹では無理だな。集団になれば可能性はある。大きさもある。このぐらいの小さな魔物でも無理だろう」
小指の先ほどの虫のサイズを指で示した。
「それに集団であればあるほど、その魔物を作り出している強大な魔物がいる。人に危害を与える虫の魔物がいるとするなら、その裏には強大な魔物が存在しているだろう。強大な魔物から、小さな魔物が生み出されることがある。奴らの瘴気が己の分身を無数に作り出す。有名なのが七代悪魔の一柱、蠅の王だ」
それなら、やはりカンザスで起こったことは魔物とは関係ないのかと考えた。蠅の王など出現すれば、出現した土地は死に絶えるほどの瘴気が出るからだ。
「こんなところで何をしているのですか? 」
美しい声が部屋中に響き、ベティーはびしっと背筋を伸ばした。
絵の中に描かれた大天使のような麗しい容貌と、金の髪に青い瞳をした第三部隊四神将カルサスが、にこやかな笑顔で音もなく部屋に入ってきた。
ベティーは初めて会った時からなんとなくであるが、カルサスが怖い。優しい声でいつも笑顔であるのに、なぜかこの人は怒らせない方が良い人だと思っている。
女性的な美しい容貌が麗しくほほ笑んでいるが、目が笑っていないことにベティーは気が付いた。
「副隊長、こんなところに年若い女神を連れてきてはだめですよ。手に持っている標本は戻してください。それから、三時から会議です」
「ベティーくんに虫の魔物を見せていたところだ」
「ふふふ、ここは神将候補生でも精神を病む場所ですからね。学校を卒業したばかりの新人女神を連れてくるなど論外ですよ。ふふ、まったく何を考えているんですか」
ベティーはぎょっとした気持ちで、カルサスを見てしまった。精神を病むとはどういう意味なのだろうか。そう顔に書いてあったのだろうか、カルサスは笑顔のまま怖いことを言う。
「死んでいるとはいえ魔物の標本ですからね。瘴気がないとはいえ、見ていると精神が弱い者は頭がおかしくなります。もちろん神将候補なのですから一つや二つ見たぐらいでは平気でしょうが、ここには数百もの標本が展示されていますからね。さすがにこの数ですと、神将の力が弱い者や見慣れていない者には耐えられません」
そう言われると、ぞくぞくと寒気がしだした。
ここには数百もの魔物の死骸があるのだと思うと、鳥肌が立つ。ほら返してくださいと、カルサスはヨハンの手から標本を取り上げると、棚に戻し、その麗しい顔をベティーに近づけてにっこりとした。
「なかなか図太いのですね。ここの部屋は神団の者しか入れないのですよ。ニューヨーク部隊の神将は入ることを許可されていません。この間、神団の女神が入ったのですが、入った瞬間、悲鳴を上げて気絶してしまいました。大概の女性はそうなります」
すばらしいとカルサスは軽くベティーの頭を撫でた。
繊細でかわいい女性ではないと言われたような気がして、なんとなくベティーはうれしくなかった。
ベティーは神将たちと別れ、蔵書エリアに戻ると螺旋階段で二階に上がっていた。
「なんか、疲れました」
精神的にぐったりとした気持ちでとぼとぼと階段を登りきると、お目当ての本がある本棚を探した。
あの標本になっていた虫の魔物を思い出すので、もう今日は虫の魔物に関係する本を読む気持ちにはなれなかった。せめてもの気持ちで、カンザスの土地に関して調べようと思ったのだ。
二階は地域ごとに上る階段が違う。
「ここの本棚は、アメリカの地域別の本が置かれている」
かつてアメリカ合衆国であったころ、五十州に分かれていた。今でも、五十州の地名は残されており、その時代の町の名前も大半が残され、そのまま使われている。ただ、国や州はなくなり、行政は都市ごとに独立した存在として機能し、いくつかの州は一つの都市の中に吸収された。州の名前はそのまま地域の名前に変わり、五十州は、十都市に分かれた。
「カンザスは、昔だとカンザス州かな」
カンザス州に関係する本は七段の棚をすべて使うほどある。
目で本のタイトルだけ見ていくと農作関係が多かった。どうやらここに置かれている本は一般的なもので、それも一部のみだ。すべての本がここに置かれているわけではなく、保管してある本も多いようである。保管している本が読みたい場合は、機械で申し込みをすれば借りられるが、今はここにある本だけで十分だった。
やはり印象に残るのが、緩やかに波打つ小麦畑の大草原グレートプレーンズだろう。そして、ベティーは目についたタイトルの本を取り出す。
「蝗害」
小さく呟くと、中を斜め読みしていく。蝗害とは農作物を荒らす虫、バッタの被害のことだ。昔から、世界各地でそれこそ紀元前から大きな被害があったという記述が残っている。ここ北米でも蝗害は多い。
「小さな虫」
ベティーは蝗害に関係する本を次々と必要な箇所のみ読み進めていった。少年が言っていた虫の群れという言葉に蝗害が当てはまるように思えたからだ。
特に1800年代の被害は大きく、1875年の大量発生は十二兆もの大群であったと書かれていた。カンザスだけではなく他の州も荒らされており、大群により空が陰ったという記述にベティーは大量の虫を想像してぞっとした。
ベティーは当時の新聞記事をまとめた本を読み進めていると、その中の一部の記事にページをめくっていた手が止まった。
1875年の大量発生した当時の貴重な写真が載っていた。どこまでも広がる畑の真ん中に、馬と人がいる写真、そして白黒でよくわからないが、よく見ると空に無数の黒い何かが写っていた。場所はウィチタよりも西側にあるアビスという土地の名前が書かれていた。地図もあり位置もわかる。
「なにか、おかしい」
この地にはこの時、空が真っ黒になるほどの蝗の大群が沸き上がったと書かれていた。そのため、この地の名前がアビスとなった。
他の蝗害に関する記事を見ていくが、どの場所でもバッタの大群が通り過ぎるという書き方をされているのに対し、カンザスのこの土地だけは、沸き上がると書かれている。そして、被害は作物だけではなく、この地では死人も出ていた。たった一行であるが、沸き上がる蝗害により死人も出たと書かれているのだ。
この記事がなぜ気になるのかわからないまま、ベティーはこの本のこの部分の記述だけコピーを取ることにした。ベティーの中で小さな虫で連想される蝗害というものが、妙に印象に残った。
それ以外に何かないかとタイトルだけを見ていくが、気になる本はこれといってなかった。時計を見ると、三時を過ぎている。一度、事務局へ戻り、明日の確認をしなければならない。今日はこれで終わりにすることにした。
図書館を出ると歩いて第三部隊の建物へと向かう。
なぜかすっきりしない気持ちのまま、なぜカンザスの任務の話にこだわっているのかベティー自身もわからなかった。
何かがここまで出かかっているのに出てこない、そんなもどかしい気持ちになる。もうカンザスの任務のことを考えることはやめた方がいいだろう。息を吐き出し、頭から締め出した。
事務局へと入ると、事務長が顔を上げ、ベティーに声をかけてきた。
「はい」
「ホレス隊長が呼んでいる。今、隊長室にいるから行きなさい」
「はい」
このように隊長に呼ばれるのは、第三部隊に来てから三週間弱で初めてである。一昨日に病院で診てもらったことに関してだろうか、不安な気持ちのまま、隊長室の扉をノックした。
「失礼します。ベティーです」
「入るように」
部屋の中にはホレスしかいなく、ホレスはベティーにソファに座るように勧めると、ベティーと向かい合せに座った。ホレスは真面目な顔をしているが、どこか苦笑しているような変な顔であった。
「ベティーくんに、長官から命令がくだされた」
ニューヨーク機関のトップからの命令に、ベティーの顔も体もこわばり、背筋を伸ばして固まる。少女の顔色は真っ青になった。
「機関に来てから三週間、ベティーくんは女神としての仕事をしていない」
ベティーはぎゅっと心臓が縮まり、体が震える。
「女神の仕事とは神将に力を与えることだ。その練習さえも行えていない」
そこでホレスは一呼吸おくと、まっすぐとベティーを見て、はっきりと告げた。
「そのため、ベティーくんは明日より特将付とし、一時的に特将のパートナーとして力の練習を行うことにする」
ぽけらんとした顔の少女に、ホレスはなぜかとても申し訳ないといった表情をした。
「ニューヨークの特将は五人いる。そのうちパートナーが決まっていないのは三人だ。ベティーくんは基本的にこの三人と練習することになる」
「あ、あ、あ」
がくがくと震え、うまく言葉が出てこない
「二人にはもう会っていると思うが、第一部隊隊長アレス、第七部隊隊長レイスターのことだ。あと会っていないのは第九部隊隊長ガイだな。パートナーがいるのは第五部隊特将筆頭ダイオン、第二部隊隊長ジークフリートになる」
「え、そ、パ」
言葉も頭もすべてがストップしている少女に、ホレスの声はとても優しかった。
「今のままでは練習さえもできないから、長官が業を煮やしたのだ。まあ、このところのベティーくんに対する神将と女神たちの態度には言い方は悪いがキレたというか」
「そ、それは」
「神将たちが煮え切らない態度をしているからな。長官としては特将も神将だと言うことだ。問題ないだろうと、簡単に言えば、特将たちにおまえたちが練習相手になれということだ。この命令は正式に特将たちにも出されている」
ベティーの瀕死な表情に、ホレスは慰めるように少しほほ笑んだ。
「胸を借りるつもりで練習すればいい」
無理です。ベティーは心の中で弱音とともに呟く。とてもではないがあの神々しい方々と一緒にいることなどできないのだから、練習なんてできる気がしない。
「ベティーくんがいきなり彼らとなじめと言われても、なじめないのは長官も理解している。力の練習となるとお互いを知らないとできない。今のままではお互いを知る時間もない。そこでだ」
まだ何かあるのかと、とても嫌な予感がした。
「パートナーのいない特将三人と同居してもらうことになった」
ベティーが受け入れられる容量はあっさりと超えた。
魔物の標本を見ても気絶しなかったベティーだが、ある意味魔物よりも恐ろしい現実に目の前が真っ白になり、パタリと気絶したのだった。
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