第19話 殺意





人間はあまりにも理不尽な仕打ちを受け続けると、時として正常な判断能力を失う事がある。




マサトと別れる前の私は、時々妹に食料を届けに家に戻る時以外のほとんどの時間を、マサトの家や仲間の家で過ごしていた。





時々家に戻った時でさえ、あの人達からの激しい暴力や罵倒がなくなることはなかった…。




彼らに抵抗しても無駄だということは、身をもって知っている。





いくら私がもう幼い子供ではなく、自己主張の出来る年齢になっていたとしても、40代になったばかりの大人の男性に力で勝てるはずがないのも知っている。





私はただ、彼らの怒りが鎮まるのを待つしかない。





私と違って、まだ痛みや悲しみの感情を失ってはいないであろう妹に、その矛先が向かないようにと…それだけを思っていた。





そんな私がある日の夜、ふと思った。






【こんな奴らはいなくなればいい…。表向きの顔しか知らない世間は、その裏で何が起きているのかなんて知りもしない。誰も私や妹を助けてはくれない。それならば…私が今すぐ殺してしまえばいい。憎い…消してやりたい】





私の中に芽生えた明らかな殺意。





真夜中、妹が眠っているのを隣で確認した私は、静かに奥の部屋から出てキッチンに向かった。





そしてそこにある包丁を手にした私は、彼らと弟が眠っている部屋へと向かう。






あと少しで終わる。




今ここで私が全て終わらせる。




もう2度と私や妹が殴られることはなくなる。





部屋の前に立ち静かにドアを開けた。





物音をたてないように細心の注意をはらう。




もしも彼らに先に気づかれてしまったら、逆に私が殺されるだろう。





静かにドアを開けた私は、彼らが眠っているベッドへとゆっくり近づく。





そして近づいてから、私は初めて気がついた。





今まで奥の暗い部屋から出て、彼らの部屋に入ったこと…眠っている彼らの姿を見たことが1度もなかった私は知らなかった。





彼らの眠っている真ん中に、小学生の弟が眠っていることを…。





時間がない。




気づかれたら私が殺される。




早くしなければ…。




そう思いつつも…殺意の塊だった私の心がほんの少し揺らいでしまう。





彼らに対する憎しみが消えたとかではない。




ただ、真ん中で眠っている弟には…きっと何の罪もない。




彼らだけに殺意を抱いていた私は…弟に危害を加えるつもりはないけれど、もしも私がここで彼らを完全に消せなかった時…この弟を傷付けてしまうかも知れない。




逆上した彼らが私に対して反撃に出た時に、もしかしたら間違って、この弟が傷付けられてしまうかも知れない。





そう思うと、どうしても決めたはずの気持ちが揺らいでしまう。





どうしよう…時間がない。





焦る私の脳裏に…マサトの、そして美月さんの優しい顔が浮かんでくる。





私は静かに彼らの眠る部屋のドアを閉めると…玄関から外に出てマサトに電話をかけた。






『 まい?どーした?また殴られた?』





『 ……。』





優しい声に何も答えられずにいた。





『 まい…今どこ?そこ、家の中じゃないだろ?』





『 ……。』





今のこの気持ちも、この状況も、何も答えられない。





『 今から迎えに行く?ねぇ…今どこにいるの?』





外を通る車の音が聞こえたのか?




真夜中に電話をかけてきて、何も話せないでいる私にいつもと違う何かを感じたのか?



いつもは優しいマサトの声が、少し大きく…強くなったのを感じた。





『 まい…?俺に話せないなら姉貴に話せる?今からそっち迎えに行く。姉貴と話してて?わかった?』





そう聞こえた後、電話は切れた。





そしてすぐに、美月さんから電話がかかってきた。





『 まいちゃん?外…寒くない?今マサトが迎えに行ったからなるべく明るくて危なくない場所で待ってよう?』





『 はい…。ごめんなさい…。』





マサトには何も答えられなかったのに…なぜかこの時、美月さんには答えることが出来た。





『 謝らなくていいのにー。マサト着くまで少し時間かかっちゃうから、まいちゃん来たら何食べたいか聞いておこうかなー?』





そう言って、いつものように優しく静かに笑った。





『 あのね…。殺せなかったの…。』





そう絞り出すように答えると…少し間があってから、それまでクスッと笑っていた美月さんの声が変わった。





『 まいちゃん。今お家の近くにいる?そこはどこか教えてくれる?』






『 家から出て…少し先の自販機…。』






『 うん、わかった。一旦切ってすぐにかけ直すから…そこから動いちゃだめだよ。』






そう言って切れた電話は、本当にすぐに折り返しかかってきた。





『 まいちゃん、そこの自販機から動いてなーい?』





『 うん…。でも包丁…。』





私がそう言うと、美月さんは静かな声で言った。





『 うん。まいちゃん、私と約束してくれる?今から私が言うこと。ゆっくり話すから、ちゃんと聞いて?』





『 まず、その包丁はそのまま持っててはいけません。その包丁はその場に捨ててはいけません。その包丁は人に向けてはいけません。その包丁はまいちゃんに向けてはいけません。この4つだけ、約束してくれる?』





いつも静かで、ふわふわっとした優しい話し方をする美月さんが…こんなに真剣な話し方をしたのは、この時点では(※マサトと別れる時に聞いたのが2回目)私の知る限り初めてだった。





『 ……はい。』





と美月さんに答えた私は、そのまま美月さんと話しながら家へと向かい、持っていた包丁をキッチンに戻した。





そして奥の部屋で着替えたあと、再び自販機のある場所に向かって歩いた。





マサトが迎えに来てくれるまでの間、美月さんは私にゆっくりと…けれども真剣な声で話してくれた。





『 まいちゃん。そんな親なんかを殺して、まいちゃんが犯罪者になる必要なんてないの。逃げてもいいの。捨てたらいいの。逃げることは恥ずかしいことではないの。誰かに責められることでもないの。』





この時の美月さんのこの言葉が、私の中に芽生えた殺意を…逃げる為の計画へと変えた言葉であり、私はこの言葉があったから今もこうして生きているんだろうと思う。





この時のこの言葉は、私を救ってくれた言葉であり…だからこそこの言葉は、これから先も絶対に忘れることはない。





もしも…私と同じように傷つき苦しみ悩んで追い詰められている人がいたとしたら、今度は私がこの言葉を伝えていきたいと思っている。





この日から私の中の殺意は、逃げる為の計画へと変わった。






【何としてでもお金を貯めて、あの家から逃げ出す】






だから…マサトと別れたあとも、私はバイトだけは休まなかった。



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