第2話

 公爵令嬢レティシア・バセットは存在しない。

 いや、正確にはもう存在しない。

 とうの昔に死んだのだ。


「婚約者であるレティシアのことを愛していたか?」と問われればその答えは否である。

 そもそも彼女だって私のことなど愛していなかっただろう。

 レティシアが公爵令嬢であり、私が王太子だから彼女と私は婚約者になっただけだ。

 幼い頃から婚約者と定められていた彼女に対して愛を感じたことはなかった。


 公爵令嬢であるレティシアは完璧な令嬢であった。

 人前で感情をあらわにすることなどなく、美しいドレスを着て、まるで人形が生きているみたいなんて言われていた。


 冷たく感情のこもらない青い瞳に真っ白な肌、その春一番に鳴いた鳥の声を紡いだかのような銀色の髪。

 すべてが完璧で美しい少女ではあった。


「殿下、大丈夫ですか?」


 なんでも完璧にこなす婚約者と違い、王太子である私はできそこないだった。

 感情を殺すことができない私は何をやっても詰めが甘い。

 武術であっても学問であっても、どうしてもそこに感情を挟んでしまう。

 剣で傷つけた相手の感じる痛みや、政治によって切り捨てなければいけない部分。そんなことを考えると私はどうしても教師たちの教えるとは異なる答えを選んでしまう。


 それを隣に机を並べたレティシアがたしなめるということが何度もあった。


 レティシアはいつも冷酷と言われるほど冷静だけれど、正しかった。


 だけれど、私は知っている。

 そんな彼女は作り物であることを。


 レティシアはいつだって、心優しい女だった。

 庭で小鳥が傷ついていれば、彼女はそれを助ける。

 助からなかったときはこっそりと墓を作り毎晩、その小鳥が安らかに眠ることができるように祈っていた。

 気候のせいで作物がとれないという話を聞けば、その農民たちを心配し、他国で取り入れられている減税措置などを可能な限り学び我が国で応用できる部分はないか必死に学んだ。


 公爵令嬢レティシア・バセットは完璧な淑女だった。


 感情に流されないのは、一番大切な場面で多くの命を守ることを最優先にしていたからにすぎない。

 本当は誰よりも涙もろく情に厚い彼女を見て、私も必死に将来の国王に相応しい人間になろうとした。


「笑ってください、殿下」


 レティシアは死の直前、私に言った。

 彼女の命の灯が消えようとしているときでも、その表情には苦悶の色を浮かべまいと必死だった。

 痛みと苦しみで死んだあと彼女の手を胸の前に組ませようとしたとき、爪が掌の皮を傷つけていたくらいには。


「殿下、いいですか。わたくしの死は伏せておいてください。貴方様に真に愛する人ができるその日まで」


 それが、婚約者であるレティシア・バセットの死の直前の願いだった。


 死んでもなお、私は婚約者のレティシアによって助けられている。

 今日のことだってそうだ。

 カオリ・フェルナンデスは変わった少女だと思っていた。

 伸びやかに笑い、自由な考え方をする。まるでこの世界の常識を知らないのではないかと思わせるふるまいにはひやひやさせられることもあったが。

 カオリはレティシアと全く似ていなかった。

 どんな令嬢も素晴らしい人間になればなるほど、レティシアと比べてしまっていた。

 そしてレティシアはどんな令嬢よりも優れていることが分かった。

 だから、レティシアにまったく似ていないカオリに惹かれたのかもしれない。


 だけれど、カオリはとんでもない存在だった。


「レティシア様によって暗殺されそうになったのです!」


 なんて、馬鹿げたことを言うのだろう。

 死んだ女に暗殺なんてできるわけがない。


 そもそも、カオリが転入してくる前にレティシアは死んでいる。


 死んだ人間から暗殺されそうになるなど、嘘をよく言えたものだ。


 もし、あのまま何もなければカオリを婚約者にしようと内々に国王にまで話がいっていたというのに。


 婚約を申し込む前で助かった。

 常識のない嘘つき女と結婚するのを未然に防ぐことができたのだから。

 おそらく、レティシアはこのような事態を見越して、自分の死を伏せ、生きているように偽装させたのだろう。

 死んでもなお公爵令嬢レティシア・バセットは私にとって大きな存在だ。


 私は、婚約者であるレティシア・バセットを愛してなどいなかった。

 だけれど、私は子供の頃からその優しさと理知に富む彼女に恋をしていた。


 一度だけ願いが叶うならば私は再び彼女に会うことを願うだろう。


 会いたい、いや愛しているよ……レティ。

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