第49話 気まずい空気
「お前が李医師か。顔を見せよ」
「はい」
秀英に応えて顔をあげた李医師は、いつも通り落ち着いていた。しかし着替える許しを与えられなかったのだろう。両袖のない汚れた衣服のままだった。
「栄の町から来た名医とはお前で相違ないな」
「李高有と申します、陛下。栄の町から来たのではありません、栄の町から拉致されてきたのです」
「う……」
張包は視線を泳がせた。拉致同然に身柄を拘束したことは、本人も自覚しているようだ。
「拉致を咎めてはおりません。火急のおりです。私のような者がお役に立てれば幸いです」
小月が畳みかける。「今もまだ火急のおりが続いております」
張左丞相はくつくつと笑った。
「となると、李医師を拉致した小月殿を咎めることができませんな」
瞬時に状況を飲み込んだのだろう、李医師は表情を変えなかった。
「小月殿は後宮を退去する許可を陛下からいただいておりません」
張包の言に、小月は首を振る。
「私は宮女になった覚えはありません。後宮に居たのは私の意志のつもりでいました。それとも私は張包副総統に拉致された奴婢なのでしょうか」
張包の眉が釣り上がる。
「ん、お主は」それまで黙していた藩右丞相が声をあげた。「我が娘を診た医者だな。その節は世話になったな。うっかり褒美を与え損ねたが」
「いえ、俺はたいしたことはしていません。一晩看病をした小月殿が適切な処置をしたのです。褒美をいただけるなら小月殿へ──」
秀英は焦れたようすで遮った。「まじないについて問い質す」
「まじない……?」李医師は首を傾げた。
「小月が流行り病をまじないで防ごうとしたと聞いた。煙を焚いたり、草の汁を体に塗ったり、漏斗を使ったり。どういうことだ」
李医師は耐えかねたように笑みを漏らした。「まじないと言えばまじないでしょう。ですが効果はありますよ。俺は小月を信用しています」
「む」
機嫌を損ねた秀英にかまわず、小月は言ってのけた。
「効果はあると信じております。数十人の高僧や方士や術師の祈祷程度には」
「……」
あきらかに余計な一言だ。この一言だけで死罪になるには充分だ。
部屋の中は、しんと静まり返る。藩右丞相と張左丞相は、神妙な面持ちで傍観を貫いている。だが小月は澄ました顔で続けようとした。
「と申しますのは──」
「人心の安寧に利する、という意味でしょう」
小月を遮って、何故か張包が口添えした。
秀英は苦笑した。「正しいことでも口にしてはいけないことがあるんだよ、小月。祈祷は、皇帝の威信をかけて国家的な行事として執り行う。私が裁可した。効果が現れなかったら、それは……私の不徳のせいなのだ」
三日三晩の大掛かりな護摩基壇や加持祈祷をしたところで、流行り病を収束できるとは信じていない。秀英は暗にそう言っている。
効果が現れなかったら、期待を裏切られた民衆の不満は皇帝に向かうだろう。それを背負う覚悟があるというのだろう。
小月も当然、責を感じていた。秀英が背負うものと比べたらはるかに小さいが、南街区の住人に対して小月は軽からぬ責を負っている。
そっと秀英の顔を見上げる。自分と同い年の、まだ若い皇帝の気負いが眩しく映る。
小月の口から、卑怯な提案がこぼれ落ちた。
「あと二月経てば、病者は減ります。そのころに施行されてはいかがでしょう」
秀英の目元がくしゃりと歪む。意に染まぬと語っていた。
「では三日三晩に限らず……」二月の間、続けて施行してはどうか、と言い立てようとした。
だが秀英をますます不機嫌にさせるだけだと気付いて、恥かしさに項垂れた。恥かしいという思いと、彼を誇らしく思う気持ちと、守りたい衝動が混ざりあう。
「小月、お前は以前、私に言っていただろう」秀英は椅子に腰を落とし、足を広げた。両手をそれぞれの膝に置き、皇帝の威厳を保つ。真摯な表情で小月を見下ろした。
「後宮の暮らしは贅沢だと。享受するには対価を支払わねばならないと。もちろん、そうだ。支払いは、私が負う責務なのだ」
「……はい」
「陛下」李医師が膝を詰めた。「小月殿の心配はもっともです。牢の同房に呪術師がおりました。偽物の護符を高く売った詐欺師です。街中にはそういった連中が溢れています。荒稼ぎしたい連中ならばまだいい。だが中には陛下を誹謗するのが目的の者もおります」
「わかっている。どういたらいいか、策はあるか」
「祈願の他に、実際的な措置が必要です。救済小屋を設置してください。治療小屋に医師を常駐させてください。全ての医師に流行り病の知識を与えてください。飢えることがなきよう、閉鎖区域に食べ物を送ってください」
「もちろん、そうしよう。医師を指導するのはお前だ。よいな」
「それから」
「まだあるのか」
「小月殿のまじないをお試しください」
「……」
一瞬の沈黙。その隙間に、小月の耳元を翅音が掠めた。一匹、二匹。小月と李医師は、はっと顔を上げ、目標物を目で追った。
それらはまっすぐに秀英に向かい、彼の両の手の甲に、一匹ずつとまった。
直後に起こった出来事は、目を覆う惨状だった。
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