第35話 道士と呪術師
「祈るしかない……」
「とはいえ、俺たちには祈っている時間はないな」
姿勢を変えると注入した水が漏れてくるので、体勢はそのままに、締めつけない程度に下着で肌を隠してあげるのがせいぜいだった。
部屋の外で待っていた客引きに、李医師が看病の要点を伝えた。
「意識が戻ったら、消化が良く滋養のある物と水分を多めに与えるように。やむを得ず緊急の処置を施しましたが、女性の医師……この小月がしましたので、ご安心ください」
小月は医師に見えるように神妙な顔つきを意識した。
「この妓楼には鼠はよく出ますか?」
客引きは首を振った。妓女の数と同じ数の猫を飼っているおかげで、もう何年も鼠を見てはいないという。
「なるほど、天猫楼と名乗るだけありますね」
李医師は扁額を見上げて頷いた。その扁額の上にも猫が寝そべっていた。
「鼠ではないとすると、食べ物が怪しくない? 麦、米、酒、茶。口にしたものに共通点があるんじゃないかしら」
「食べ物や飲み物は考え難いな。貴賤で同じものは口にしないだろう。仕入れ元も料理人も異なる。米や麦が腐って毒になることはあるが、口にした者は同時期に罹患するはずだ。食べ物といえば、腹が減ったな」
南街区に近づくにつれて小屋を張った小さな店が多くなってきた。道は狭くなり細い横道が増える。李医師はその中のひとつに腰かけて小月の分と合わせて二つ頼んだ。
「腹が減ると不注意や見落としがおきる。義務だと思って食べろ、小月医師」
「はい、いただきます」
空腹を自覚していた小月は反論せずに麺をすすった。麺の上に煮込んだ野菜がのっている。
「さっぱりして熱くて、とても美味しい!」
喉にすうっと吸い込まれるようなキレの良さ。宮廷で食べた料理にはとろみのある料理が多かったせいだろうか。
「とろみの材料は高価なの?」
「片栗粉か。そうでもないだろう。屋台は目の前で作るからな。アツアツが食えるんだ」
小月は、ああ、と声を上げた。「後宮では厨房から宮に運んでくる間に冷めちゃうから、とろみをつけていたのね。とろみが熱を閉じ込めて温かさを保つんだわ」
宮廷には常に毒見役が控えていた。宮廷では本物の熱い麺を食べられないのだ。小月は複雑な気持ちを飲み込んで、しかし豪快に平らげた。
「疫病除けのお札はいらないかね」
風雪に耐えた枝のような手が、背後からぬっと現れた。手には紙片が数枚握られている。
「それはなんだ?」
李医師が顔をしかめた。
「お前さん知らないのか、なら早いうちがいい。これを家に貼るんだよ。そうすりゃ、疫病が逃げていく。ありがたいお札だよ」
屋台の店主が小銭と引き換えに数枚のお札を買った。小月には何が書かれているかはわからない。みみずがのたくっているような字が書かれている。
「貼れば貼るほど効果があるんだってよ」店主はお札を拝んだ。
李医師は振り返って売主に訊ねた。「道士かい?」
「そうだ。あんたは何枚入り用だね?」
「南街区で疫病が流行っているって聞いたが、そのせいか?」
「そうだ、あれはただの疫病ではない。ひとたび罹れば、数日間苦しんで悶え死ぬ。このお札を家に貼らないと疫神に憑りつかれるぞ」道士は窪んだ眼で李医師を見つめた。
「まだそんなことを言っているのかい」
今度は道士の後ろから甲高い声が聞こえた。仮面を被った老女だ。
「疫病は祟りのせいだ。この世を呪う死者たちの怨嗟だ。腐れ道士の紙切れに何が出来るものか」
「おい、ばーさん。営業妨害はやめてくれ」
「病を追い払うことができるのは私の秘術のみだ。今なら特別に去病丹を格安で譲ってやってもよいぞ。これを飲めばどんな病もたちまちに治る」
老婆は腰の巾着から真っ黒い丸薬を覗かせた。
「ぜひ私に売ってください!」店主が縋るように伸ばした手を、道士がぴしりと払う。
「炭を練ったもんだぞ。インチキに金を出すな!」
「それはこっちの台詞だよ!」
道士と呪術師は醜悪な言い争いを始めた。李医師と小月は顔を見合わせて頷き合うと、その場を離れた。
角を曲がる間もなく、不穏な言葉が耳に入ってくる。
「皇帝に徳が無いせいだ」
壁にもたれて座り込んだ男が青空を指さしてにたにたと笑っている。
「皇帝のせいだ。俺のかかあが病で死んだのは徳のない奴が皇帝になったせいだ。天の怒りだ」
「皇帝のせいじゃないわ!」
小月は思わず反論していた。
「皇帝と病は無関係よ!」
「小月、やめておけ」李医師が小月の肩を抑えた。
「じゃあ、なんで俺のかかあが死んだんだ。かかあだけじゃねえ、俺の息子まで、なんで苦しまなきゃいけないんだ」
男は相変わらずにたにたと笑っている。
「俺は医者だ。お前の息子を診てやろう。家はどこだ」
李医師の言葉を、男は鼻で笑った。
「もう封鎖されちまったよ」
小月は昨夜の張包と秀英の会話を思い出した。南街区を隔離すると言っていた。疫病対策が始まっているのだ。
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