第34話 上が駄目なら
入口では派手な装いの女性が手招きをしている。扁額にはなんとか楼と書かれているが小月には読めない。読めなくても、華美な設えと媚びを含んだ女性の仕草で妓楼の類だとわかる。
「ずいぶん早くっから営業してるんだな。いくらだい」
「あら、なにか香油でもつけてるの?」女性が眉を寄せた。「変な香りが……」
「李医師! そんな暇ないでしょ」
小月は李医師の袖を掴んで引っ張った。ブチブチと嫌な音がした。
「おい、よせよせ、裂ける。ちょっと話をしてるだけだ。嫉妬するな」
「嫉妬なんてしてない!」
小月は憤慨して袖を離した。
「おおっと」反動で重心が傾いたていで李医師は客引きの女性に抱きついた。
「あらあら、大丈夫ですか」
「医者ってのは腕力がなくていけねえな」
「まあお医者様なの。なら……」客引きは妓楼を振り返った。
「具合の悪い者でもいるのか?」
「一人いるんですが……」
「良くなったり悪くなったりを繰り返しているんだろう?」
「ええ、熱が上がったり下がったり……懇意のお医者様に診ていただいているのだけど治る兆しが見えなくて。もしや名医でいらっしゃる?」
「栄の町では、まあ知らぬ者はいないかなあ」
「まああ。病に伏しているのは、うちの売れっ妓なんですの。治していただけますか? もし回復したら……うふふ、おわかりでしょう?」
客引きの女性はしなを作って李医師の袖を引いた。
「南街区が待ってますよ」小月は離した袖をもう一度掴んだ。李医師の鼻の下が伸びているのが気に入らなかったからだ。小月と客引きは李医師の袖を左右から引いた。袖はびりびりと悲鳴をあげた。
「困ったなあ、俺、もてもてじゃん。なあ、小月ちゃん、俺さあ……」
目の前に患者がいたら捨ておけないのが医者なのだ、と李医師がにやけた顔で妓楼を選んだ。しかたなく小月も後に続く。通廊の床に寝そべる沢山の猫をよけながら、奥まった部屋に通された。小月とさして変わらない年頃の少女が寝台の端に伏せている。
少女を一目見るなり、李医師の顔つきが変わった。
「脱水症状だ」
青白さを通り越して土壁のような顔色だ。今にも死に押し潰されようとしている。
「口移しで飲ませてみましょうか」
「口移しって……ああ、そういうことだったのか」
李医師は女性の上半身を起こして口を開かせた。だが藩貴妃のときとは異なり、口ががくんと開いたままになってしまう。
「嚥下できないようだ。手遅れか」李医師は女性をそっと横たえた。
覗き込んでいた客引きは手で口元を覆って嗚咽した。小声で「姉さん……」と呟いている。
小月は李医師をきっと睨んだ。「諦めるんですか。なんとか、なんとか水分を体の中に入れましょう」
「脈が弱っている。あとせいぜい二刻といったところか」
李医師の冷静な判断。おそらくその判断は合っているのだろう。彼は沢山の患者を診てきた実績がある。だが小月はおのれの身の内から反発が溢れるのを止められなかった。
「漏斗は? 漏斗を長くして胃の中に入れたら飲ませることが出来るんじゃないかしら」
小月の脳裏に油屋でみた漏斗が浮かんだ。
「面白い発想だが無理だ。漏斗の先に空心菜の茎でもつけるのか?」
「やってみなければわからないわ」
「そんな脆弱な物が喉を通るものか。……待てよ」李医師はぽんと手を打った。「片方が駄目なら、もう片方を試すか。さっきの油屋に行って漏斗を買ってこい。早く!」
懐から巾着を出すと李医師は小月を油屋まで走らせた。
小月が持ち戻った漏斗を見て李医師は頷いた。卓上には油が入った小皿と水を満たした水盤が載っている。客引きに用意させたものだ。
「服を脱がせて、直接肌に触れることになるが、よろしいか?」
李医師の確認に、客引きはこくこくと頷いた。「姉が助かるなら」
「呼ぶまで外でお待ちください」客引きを部屋から追い出して李医師は戸を閉めた。
「手を貸してくれ、小月」
「何をするんですか」
李医師は女性を俯せにして、下腹部の下に枕を押し込んだ。臀部を突き出したかっこうにする。
「……李医師?」
李医師は無言で女性の衣服を捲り上げる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」下着にまで手をかけた李医師の手を小月はぴしりと叩いた。「見損ないました、李医師。瀕死の女性を手籠めにしようなんて……最低の変態!」
「変態は否定しないが、今は医者だ。これは治療だよ」
「治療?」
「小月も手伝え。上の口が駄目なら下の口から水を飲ませる」
「あ……!」
李医師は女性の下着をずらした。肉の薄い臀部がむき出しになる。
「何をするか、言わなくてもわかるな」
小月の顔は緊張して引き締まった。これは人の命を助けるために必要な処置だ。
李医師は油を指先で掬い、女性の肛門に馴染ませた。漏斗の管の部分にも油を塗る。管は抵抗なく、するりと入った。
「抜けないようにおさえていろ」
小月に漏斗を持たせ、李医師は水盤の水を杯で汲み、少しずつ漏斗に流し入れた。ときおり脈を取りながら、慎重に水量を調節している。
「順調だ、量を増やそう。おい、漏斗が傾いてきたぞ」
「もっとお尻を高くしないと無理です」
李医師は手近な衾を女性の腹の下にまるめて突っ込んだ。
「よし、これでいいだろう」漏斗の中をするすると水が滑り落ちて、腸内に流れていく。
「助かりますか?」
「腸の機能が死んでいなければな。あとは祈るしかない」
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