第3話 お迎えが来る
翌日、鶴家の主人が憤怒の顔で乗り込んでくるや、小月の華奢な手首を掴んで外に引きずりだした。地面に小月を突き倒すと、馬用の鞭を振りあげた。
「秀英に傷をつけるとは、身の程知らずめ!」
小月は驚きのあまり声が出せなかった。背中にピシリ、ピシリと焼けるような痛みが走る。視界の端に怯えた母親の顔が映り、父親の震える声が耳朶を打った。
「うちの娘が何か悪さをしたんでしょうが、幼い子供です、おゆるしください」
五回目を数えたとき、「やめて、やめてよ、お父さん」秀英の声が聞こえた。
「ええい、手を放せ、秀英。お前に傷を負わせたんだぞ」
「僕が足を滑らせたんだよ。小月が悪いんじゃないんだ。たかが、かすり傷だよ……!」
「秀英は特別な子供なんだ。かすり傷だってゆるせるもんか」
父親が鞭を振り上げるとみるや、秀英はとっさに小月の上に身体を重ねた。
ピシリ。
「あ……!」
「秀英! なんてことを」
秀英の背に、一条の鞭のあと。鞭を放って、秀英の父は秀英を抱き起こした。
かすり傷よりも大きな傷が布の裂け目から見える。
「おお、秀英、秀英。なんてことだ」
「……僕は大丈夫です」
「すぐに家に戻ろう。薬を塗ってやるからな」
「小月にも、小月にも薬を。お願い、お父さん」
「……わかったよ、秀英」
鶴家の当主は使用人に指示をして二人の子供を治療させた。貧しい農家の明家と違い、鶴家は交易品を扱う商人なので村では一番裕福だった。このときも、評判の良い傷薬を惜しげもなく使った。鶴家の当主が秀英を殊の外大切にしていることは村の全員が知っている。秀英と小月は幼馴染みだが、貧乏農家との付きあいを鶴家はずっと苦々しく思っているようだった。
「ごめんね、秀英」
小月は秀英に謝った。秀英の外出が制限されることになったからだ。
「ううん、僕のほうこそ謝らないと。お父さんは過保護なんだ。もう高いところにのぼっちゃ駄目だってさ」
虫取りをする機会はなくなったけれど、秀英はときどき部屋を抜け出して綺麗な石や花など、小月の戦利品を羨ましそうに見にくるようになった。
3年後、秀英の一家は隣町に引っ越すことになった。商売を拡大するためだ。
「手紙を書くよ」
「待ってる」
秀英は名残惜し気に、だが笑顔で小月に約束した。だが手紙は来なかった。
「秀英兄さんはどうしてるんだろうね」
「元気にしているってことだと思う。そうだ、今年も御宮に無病息災のお札をもらいに行かなきゃ」
隣町の御宮に詣でるついでに小月は秀英の消息を訪ねた。だが鶴一家を知る町人はいなかった。
それからさらに3年が経ち、小月は16歳、鈴鈴は14歳になった。土色の大地が新緑に埋まる頃、明小月の荒れ家の前に立派な馬車が止まった。ひときわ大きな馬に乗った大柄な男性はぴかぴかの官服を着ていた。偉い役人だということだけはわかる。部下らしき人もあわせて総勢で8人ものぴかぴか御一行様である。
両親に何事かを伝え、恐縮した彼らを置いて、大柄な男はずかずかと裏庭に入ってきた。洗濯中の小月の前にくると、
「お迎えに上がりました、明小月様」
「迎え?」
「皇帝陛下の命令でございます」
「私、何かしでかしました?」
「勅書を読み上げます。地面に膝をつけてもらえますか?」
「はい……」
勅書というものを読み上げてもらったが何を言っているのかよくわからなかった。両親も鈴鈴も、ただ跪いて呆然と武官の朗々たる声を聞いていた。芝居の一場面のようだった。 道案内をしたらしい郷吏だけがひたすら平身低頭していた。
「私は禁軍の副頭領、張包といいます。帝都まで貴女をお守りいたします」
「禁軍……?」
「禁軍とは宮城を守る、天子直属の近衛軍のことです。三年前、先帝が崩御され、新帝が即位されたことはご存じか」
小月は首を左右に振った。両親はそわそわしている。皇帝が変わったことは、この村の人間は殆ど知らないだろう。それくらい、皇都は遠かった。
「皇帝陛下が私なんかに何の用なんです?」
「私が命じられたのは、貴女を無事に連れて帰ることだけです。陛下の御考えは直接伺ってください」
『直接伺ってください』この台詞に郷吏は卒倒寸前になっている。
「いつ帰ってこれますか。夏に向けて野菜の植え付けがあるのだけど」
「ご家族の当座の生活費にと、陛下から下賜金を預かっております」
黄金色の巾着袋が父親に手渡された。中を覗いた父が今度は卒倒しそうになっている。小月の代わりを雇うには充分な額なのだろう。
「もし、行きたくない、と言ったら、どうなりますか」
「私の首が胴体から離れるでしょう」
「張包さんとは縁もゆかりもありませんよね」
「ありません」
しばらく見つめあったあと、小月は溜息をついて頷いた。
「仕方ありませんね。ではとっとと行って、陛下に会って、さっさと帰りますね。その前に洗濯物を干させてください」
とうとう郷吏は卒倒した。
身の回り品を持参してよい、と言われて小月は困ってしまった。ボロボロの着替えと歯の折れた櫛とお椀くらいしか私物らしい私物がそもそもない。どうせすぐに帰るのだし、と思って、それらを無造作に布でくるんで背負った。
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