血縁
「あんた、女の子にセクハラしたんだって?」
母との会話は痛烈な一言で始まった。
ひとみと文字通り離別した僕は、とぼとぼと家路を辿っていた。二階建てのボロアパートに着くまで母への弁解の余地を探していたが、結局見つからず、とうとう自宅に辿り着いてしまった。
どうしたものか。
二階建ての賃貸住宅にしては年季の入ったアパート。母が借りてるその二階の中央の部屋へと階段を上り、向かう。玄関の扉の前に立つと途端に焦燥感が汗となり、額、背中から滲み出る。
母に、どう伝えるか。どうすればあの神経質でプライドの高い親を説得できるか。一挙一動に熟思の思索を込めながら鍵をバッグから取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。
ガチャッ。
開閉音がした後、鍵をしまいながら扉を開けた。
「あっ……」
「先生から聞いた。ーーあんた、女の子にセクハラしたんだって?」
僕は死んだ。人生ーー終わった。
母が玄関で仁王立ちしていた。
母は会社勤めのOLだ。今年で四十歳になるが父は僕が生まれる前に病死した。
母は父親がいない分愛情を注ぎ込んでくれたが、その分厳しかった。特に躾が厳格だった。
ルールはもちろん、マナーはもちろんだがそれまでは普通。母の場合、ネット環境は高校まで用意せず、付き合う人さえも選ばされた。だから、友達が出来なかった。
でもなぜかひとみだけはよかった。母が気に入ったらしい。傍迷惑な話だが人に自分の人付き合いまで言及されたくない。別に悪友を作ろうとしてるのではないのだから。でもいつも厳粛な顔付きをしていた母は今回ばかりは特段厳かだった。
「相手はひとみちゃんでしょう。あの子、あんたに特別好意を寄せてるみたいだったからそれを利用したんじゃないの?」
なんとか言いなさいよ、そう口が動いて僕の顎を母の右手が掴んだ。僕の頬を握り潰してくる。
途端に心臓の鼓動が速まる。ドクドク、ドクドクと音を大きくして震えるそいつがたまらなく胸を苦しくさせる。
「ねえっ、訊いてるのよ、答えなさい。相手はひとみちゃんじゃないの?」
彼女の握力が強くなってくる。汗が全身から噴き出す。体が震えだす。カタカタ、カタカタとたまらなく。たまらなく、ーー
怖い。
「はっ、はい、そう……です」
「そう……」
ぱっ。
僕の頬が脹らみを取り戻す。手が、離される。
「あんたなんかいらない」
へっ?
「今、なん、て……」
「あんたなんかいらないわよッ!!」
ドンッ。
思いっきり肩を突き飛ばされた。衝撃で後ろに吹き飛ぶ。赤錆びた鉄柵に背中がめり込み、二階からの落下は免れたが、肺が潰れ、ひしゃげて御釈迦になる錯覚に気が酩酊する。
「くあっーー」
金属を叩いたような壮大な着地音とともに尻もちをつくと、母が扉の前で僕を見下ろしている事に気付く。痛みに片目を瞑り、隻眼を仰がせると母は、ふんっと瞑する双眸ごと顔を逸らし、室内に入って扉を閉めた。
「ーーっ、ふぐっ……」
涙が溢れてきた。今まで母の子供として従順に育ってきたのに。ひとみとも一生の友達になれると思っていたのに。信じていたのに。どちらとも断ち切れてしまった。いや、ひとみは僕から絶ったんだっけか。彼女のせいでこんな目に、あいつのせいで理不尽な目に遭って。あいつの、あいつのせいで。あいつが悪い。そうだ、全部あいつが悪い。あいつのせいにすればいい。あいつを憎めばいい。
ーーそうあれたらよかったのに。
絶望を憎悪に、嫌悪に変えて憎めればよかったのに。
僕は、あいつを、彼女を、ひとみを、君を憎めなかった。
ふらふら、ふらふらと道を歩き、気付けば辺りは真っ暗になっていた。どこまで歩いたか。見知った道ではあるけれど真夜中にここを歩いた事はなかった。通りは小さな神社と住宅だけが並ぶ道。その神社の石段に腰かけ、ひと息吐いた。
目元がひりひりする。歩いてる時、濡れる目を擦って手で拭っていたからか。
暗い夜道の中は誰も通らない。ふと見上げた空もくもり。星も、何も、見えない。
また、自分の足元を見る。暗い。地面の色さえも分からない。僕の胸裏も、置かれてる状況も、これからどうすればいいのかさえも、分からない。
無限にも感じるような時の中で、虚ろに、虚無に、虚空に囚われながら、また涙が滲みかけた時、不意に女性の声が響いた。
「うい~っ、ひぐっ」
酒に酔っ払ったような声だった。そして、
すとんっ。
隣にその誰かは座った。潤んだ瞳をその誰かに向けると唖然とした。
凄く綺麗な人だったから。その明眸に、つやのある銀髪に、端麗な顔立ちにびっくりする。
「どうしたんだ~い?きみ~。制服なんか着て夜を出歩いてたら通報されちゃうぞ~?」
そして気付く。自分が制服姿のままであった事に。
「ーーどうしたの~?」
「……なんでもないですよっ」
にこ~っと破顔して相好を崩しまくってる女性に僕はそっぽを向く。
「おやおや~?ツンデレってやつかな~?それとも思春期い~?」
酒に酔ってるからか女性は気分がよさそうな声で話しかけてくる。普段からこんななのだろうか。……酒臭い。
「ふふっ、お姉さんに言ってみ?」
「いいです」
「ほらっ、言ってみ?」
「いいですって……」
「言ってみ~よ~っ♪」
でしっ。
彼女に肘突きされると、嘆息し、仕方なく僕は今朝からの出来事を物語った。
僕が話を区切る度に彼女は頷きながら、うんうん、それで?と続きを、発声を催促してくる。だから、話をやめる事ができなかった。
「それで今に至るわけです……」
「そっか……」
最後まで聲の操觚をすると、銀髪の女性はこう、ぽつり、呟いて口を零す。
「頑張ったね」
僕は呆気にとられ、瞠目して呆然とした。そして、彼女を見やる。
彼女を熟視する眼は次第に、またも、涙を滲ませ、潤んでいく。
ーー僕は、僕を認めてくれる人が欲しかった。頑張りを褒めてくれる人が欲しかった。そしてその人が今そこにいる。存在する。だから僕はーー、
「っ、うああああああああああああああああああああーーーッッッ!!」
涙声を、愁然とした愁傷の叫びを上げた。否、絶叫だった。
勢いで僕は女性の体に抱きつき、しがみつく。きゃっ、なんて小さな悲鳴を彼女は上げたけど僕は気に留めなかった。気に、しなかった。いや、気付けなかった。僕が何をしているか、気付く事さえ出来ず。僕が何をしているかさえ僕は分からなかった。
女性の豊満な胸に顔をうずめて、その人の服も自分の顔も涙と鼻水の体液でぐちゃぐちゃにしてどうしようもなかった。どうしようもない光景だった。
僕は自分の心痛に、心中をどうする事も出来ずに、ただ、ただ、ただただ泣いて哀号に苦しんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
その謝罪は誰に向けられたものか。母か。父か。ひとみか。この女性か。それとも、
ーーーー由希か。
ごめん、ひとみさん。僕は君を憎めない、憎めなかった。やっぱり友達でいたかった。友達でいるべきだった。そうじゃないと“僕,,は、“僕,,という存在は保てない。僕は“僕,,でいられない。
ほんとにごめん。
「すぅ……すぅ……」
ボクが泣き疲れて女性の膝枕で眠った後、女性は嫌がる素振りさえも見せずに、ただボクの頭を撫でていた。髪をとかすようにかきわけていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう、大丈夫。頑張ったね。あとはわたしに任せてーー」
そうぽつり、銀髪の女性は囁いた。
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