最初の告白

 ひとみは中学の時転校してきた子だ。緊張してるのか分からないけれど教室の隅っこでおどおどしてる、そんな第一印象の子だった。

 下校時、校門をくぐる時に声を掛けてみた。この年になっても人にびくびくしてる人なんて初めて見たから、気になった。だから。

「一緒に帰らない?途中までだけど」

「え?ーーう、うん」

 名前の通り大きい瞳をぱちくり、数秒して頷く。……断らないんだ。

 人見知りみたいだから、てっきり誘いに乗らないもんだと思ったけど。

 僕らは肩を並べて歩く。夕焼けの空を見上げる僕に灰色の道路を見下げる彼女。このままじゃなんだか気まずいと思って話題を振ってみる。

「ねえ、高島さん部活何に入るんだい?」

「えっ?……あ、水泳部」

「そっか」

 ……長続きしない。

 まあ、こんなもんかとアプローチを諦めて彼女の顔を見てみる。無表情。足元ばかり見ているな。でも綺麗だ。男子の中で噂になってたぐらいだもん。そりゃそう思うのは当然だろう。でも胸がないのが残念かな。

 そんな事を考える。ーーと。

「なに?」

 ぎろっ。

 彼女が睨んでくる。やべっ、胸ばっか見てたのばれたか?

 僕はそっぽを向いて、気取る。

「いやっ、なんでも」

「……」

 彼女がこっち見てる。気付かれたかな。確かめてみるか。彼女の顔色を窺う。

 そして僕は瞠目する。

 だって嫌そうな顔をしてると思った彼女が困ったような表情で紅潮していたから。なんでそんな表情してるのかよく分からなかった。

「だい、じょうぶ?なんかあった?」

 彼女の目元がぴくっと動く。俯きがちだった彼女の両眼が僕の双眸を射抜く。ーーねめあげている。

「ひどい」

「……なんかごめん」

 気付かないふりをして歩みを止める。彼女も足を止める。

「僕はここから道が違うから」

「そう」

 本当はまだ一緒に歩けるけど。

「またね」

「……うん」

 このまま進める勇気は僕には無かった。やっぱり人に話しかけるなんて柄じゃないんだろうか。今回は失敗した。

 早足で丁字路を曲がる。速く、そしてもっと距離出来るように足を動かす。次の十字路に辿り着いた時には少しばかり息が切れてた。呼吸が荒い。これぐらいじゃ息は上がらないのに、ーー動揺してるのか?これくらいで?

歩道の限界に足を置く。消えかかったカーブしてる白線が足元目の前にある。

「なに、やってんだかな……」

 ぽつり呟いて、白線を靴裏でこすってみる。これ以上消えないか。

 ため息吐いて持ち上げていた右足をさらに前へ持ってこうとした時、襟を後ろの誰かに引っ張られた。

「ぐえっ」

 膨れ上がった喉ぼとけに襟ホックが刺さる。いてぇ。僕が後ろの人間の腕を掴もうと肘を曲げてそのまま背負い投げでもしようと伸ばした時、さらに引っ張られた。

「ぐええぇッ!!」

「ぷふっ」

 笑い声が後ろで響いて、同時に襟ホックの力が抜ける。くくくっ、あはははははっ!!

 女性の高らかな哄笑が静けさの広がる住宅街に残響する。

 喉を押さえて痛覚にきつく片目を閉じ、後方に振り返る。

 そこにはお腹を抱えてバカ笑いしてる高島ひとみがいた。苦しいとばかりひーひー言ってる。黒髪に真っ赤に染まった顔が見えてそのひとみに涙が浮かんでる。ケタケタ、ケタケタと肩が笑ってる。

「そんなにおかしいか?」

「おかしいよっ、軽く引っ張ったのにえずくなんてそんなに痛かった?」

「痛いよ、学ランをなんだと思ってるのさ、男子のやつは襟が固いの。分かる?」

「分からない。だってあたし女だもの」

 あっそ、と僕はふてくされると、彼女は両眼に溜まった涙を指で弾く。

 ふうぅーっと大きく息を吐いて顔を上げた彼女はにっこりしていた。

「ねえ、明日も一緒に帰れる?」

「え?」

 破顔している彼女に僕はつい疑問の声を上げてしまう。彼女の言葉を反芻しても意味が分からない。僕が硬直していると彼女はむっと顔をしかめ、

「聞こえなかったの?明日一緒に帰って!」

「あれ、いつの間に命令に。疑問形じゃなかったっけ?」

 どすっ。

 彼女の握り拳が僕のどてっ腹にぶち込まれていた。

「くぁっ」

 衝撃は軽い。が、唐突に込められた威力だ。咄嗟に腹部を押さえる。

「はい、これでさっきのはおじゃん、気にしないで誘われて?」

「ふえ?さっきのって……」

 動転が隠せないまま出した声が変に裏返る。眉根を微かにひそめる僕にふふんとイジワルな笑顔で喉を鳴らし、

「胸見てたのはなしにしてあげるって言ってるの。思春期でも女の子の胸ばっか見てたらあそこ蹴られちゃうよ?」 

 そう言って小指を差し出す彼女に、僕は首を傾げる。はて、何がしたいのだろうか。

「約束よ、や・く・そ・く!あたしにこの町の事教えて!!」

 こしゃまっくれた笑顔を見せる彼女にそんな話していただろうかと、急な飛躍に戸惑いながらも彼女の小指を握る。僕よりも細く柔らかなその小指を。

「はい、約束。明日あたしより先に帰ったら今度は本気で殴るからね」

 ばいばーいと別れた後も大きく手を振る彼女に僕は未だに動転してるらしい。ちょっと呼吸が荒いもん。女の子の指を握ったからだろうか?小指だけだけど。

 ふにっとしてて痩せた見た目には不相応な肉付きにびっくりしたけどそれよりも股間の違和感が気になる。

 膨らんだ男根の位置をずらして振り返る。明日も会うのか、会えるのかと気分が上がるのも感じる。

 でも彼女を体は異性として見ても心はただの同級生だと見ていた。

 だから彼女の告白を受ける事は出来なかった。


 彼女とは日に日に仲良くなっていった。交わす言葉の数が増えると彼女は男勝りな性格だった。竹を見たら中に居るかぐや姫ごとぶったぎるような、そんな子。だから、クラスに馴染むとすぐに誰とでも仲良くなった。つまり、人気者ってわけだ。

 男子にも怯む事なく声をかけるので特に男子と仲良かったイメージ。それで可愛いときたもんだ。中学を卒業するまでに何人に告白されてた事か。その度に振られたのは知ってるやつでも五人以上。

 そんな彼女に遠慮して近づく事もやめたのだが今度は彼女から話しかけてくるようになってた。

 今だってそうだ。

 そして、高校受験生の僕らは勉強に勤しむ。そうして夏、待ちに待った水泳の授業だ。

 ーーと言いたい所だが、僕は泳ぐのが大のニガテ。ビート板を持たないとそのまま沈んでいってしまうぐらい、泳げない。という事で見学。

 これもこれで至福なんだよね。だって女子の水着が見れるんだもん。

 痩せ型の女の子も、ふくよかな女の子も肢体の曲線とか胸の膨らみとかじっくり見るのが好き。

 女子は僕の事なんて気にしなかった。けれどめざとい男子はあっさり気付いて僕の顔を覗き込んではニヤついてた。

 仕方ないじゃないか、男なんだから。健全な男子中学生なんだから暇があれば女子の体くらい見てるよ。まったく。

 ピッ。

 ホイッスルが鳴って一斉に女子が飛び込む。今回はクロールの練習。中でもひとみの泳ぎが一線を画して綺麗だった。無駄のない動き。次の動作にもキレがあり、ちゃんと真っ直ぐに進む。

 僕の場合、ビート板使っても前に中々進まなくて何故か斜めに、明後日の方向に突き進む。

 それがどうだ。彼女の水泳は。水泳部の部長を務めてるだけあって肩書き通りの当然の実力だった。

 プールサイドに上がった彼女はベンチにジャージ姿で腰掛ける僕に近づいてくる。

(……ああ、やっぱ特段えろいよな)

 僕は吟味するように太陽の日差しに目を細め、体を滴る水滴をきらきら光らせるひとみを見つめる。

 初めて出会った時よりぐんと身長の伸びた彼女はそれに合わせるように胸も脹らんでいった。水着を着ている今も布を押し上げてるのが一目で分かる程女の子らしい体に仕上がっている。このままクラウチングスタートを決めてダッシュしたら、ぽよよんと弾むくらいの大きさかな。

 僕も背丈はいくらか伸びたけどいつしか彼女には負けていた。それに鍛えてるからウエストは引き締まっていて筋肉も付いてる。最近腕相撲したら折れる勢いで倒されたぐらい。それぐらいスタイルのいい身体能力バツグンの女の子である。

 だから体が発情してしまうのは当然の事であり、当然の事で、だからーー

「翼くん」

「ふえっ!?」

 隣に立たれるのはよしてもらいたい。いや、よしてください。お願いですから。

 しかし、そんな祈りは彼女には届かない。一寸も。一ミリも。一ミクロンも。

「声が変だよ、どうしたの?」

「いやぁ?どうしたんでしょうね~?」

「じーっ」

 僕、高木翼はひとみの視界から気配を消して俯いていた。それでやり過ごそうとしたのに気付きやがった。ちっ、目の肥えたやつだ。

 それで追及してきやがる。勘の鋭いやつだ。ちっ。

「隣座ってもいい?」

 ぎしっ。ベンチが悲鳴を上げる。

「いやっ、座ってんじゃん」

「んー?」

 ひとみは首を傾げにっこり満面の笑みでこっちを凝視する。

「すみません……」

「うん、それでよし」

 くそっ、この一時でいいから尻元のベンチと入れ替わりたい。彼女の濡れたお尻にしかれてその場を凌ぎたい。

「それで話があるんだけど」

「……なに」

 泳いだ後だからか少々呼吸の乱れた彼女は、緑の水泳帽を引っ張ってそのつややかな黒髪を露わにする。途端に塩素の匂いが濃くなる。

 いや、プールの匂いーーかな。

「ねえ、夏祭り一緒に行かない?」

 友達も誘って、だけどさ。そうはにかんで呟く。

「いいけど来月じゃん、まだまだだよ?」

「いいじゃない、こういう約束は早い方がいいの」

 その方が忘れないでしょ?って、束になった髪を撫でつける。

「だめ、かな?」

 媚びを売るような表情で言うひとみ。……その顔はずるいじゃないか。ずるいよ。……ずるいって。

「分かった、でもひとつだけ条件」

「えっ?」

 一刹那、歓喜の表情になったひとみの感情が困惑に移り変わる。

「それは……」

「それはね、とびっきり可愛い浴衣を着てくる事。いい?」

「ーーうん、分かった」

 視線ずらし黙考、彼女はこくんと頷く。よし、こいつの浴衣姿ゲット。やったぜ。どんなの着てくるかな。楽しみだ。妄想ににやつく。ーーと。

「……」

「ーー?なに?」

 ちらっ、ちらっとこちらに視線を向けているひとみに気付いた。

「さっきから女の子みたいに膝の上に手を置いてるけど、おち……翼くんってオネエだったっけかな~って」

 途中何かを言いかけたが噤み、代わりの言葉が零れでる。

 ひとみは顔を赤くしてそっぽを向いた。……絶対に気付いてる。分かってるよこいつ。

「いや違うけど、何で急に?」

 僕も顔を逸らす。出来るだけ自然に。でも呼吸が自然じゃない。大きく吐いた呼吸がヴィブラートかかってる。やべえ、ばれる。ばれてるけど。

 息がどんどん上がる。どんどこどんどこ心臓が動く。打ち鳴らされる。うるさいって。聴こえたらどうする。

「翼くんのえっち」

 ぴくっ。

 咄嗟に振り返る。

「いや違うんだ。他のやつ見てこうなってて……」

「ヘンタイじゃん」

 うぐっ。何言ってんだ僕は。その通りだ。火に油じゃないか。

「……ヘンタイじゃないもん」

「じゃあなんだっていうの?」

「うーん、スケベかな」

「本当にそう思ってる?」

「うん……」

 嘘です。そんな事微塵も思っていません。っていうかなんてこと言わせるんだこいつは。痴女か?

「じゃああたしの体でおちんちんが興奮してるんじゃないんだ?」

「……うん?……うん」

 返答に困る。危うく首が正直に動きそうだった。危ねえ。それにしてもこいつおちんちんって言ったか?やっぱり痴女なのか?

「ふーん、そっか。……うそつき」

 最後の一言口ごもるひとみ。

 いつの間にかプールの水面を眺めていたひとみは足をぶらぶらさせ、ぽつりなにかを口の中で含んだ。

 隣の、爪の先まで育ち盛りな艶めかしい爪先を目で追いかけてるとふと、制止。

 ーーさっきの囁き、実は聴こえてた。ぼそぼそとだけど、水飛沫のノイズを省いて、予想して、多分だけど。はっきりじゃないけど、でも絶対ってぐらい彼女の発言は知覚した。心で、聴いてた。

 そうか、やっぱり君は、

「君は痴女なんだね」

 ごつんッ!

 頭蓋がかち割れるような音がしたのは僕が言い終えたのと同時だ。

「いってえ~!!」

 目尻が濡れる。それぐらいの痛覚レベル。最近ここまで痛いって感じたのはない。自己ベスト更新だ。それを果たした相手は、

「女子に向かってそれはない!ひどいよっ、もう」

 怒声。でもどこか本気さがない。振り返ってみるとまたもや失言を吐いてしまった事に気付いたが、これでもマジギレしないなんてやっぱりこいつは痴女なのか?

「ひどいっ、翼くんサイテー」

「ごめん、やっぱり約束なしにする?」

 機嫌をとろうと顔色を窺う。覗く。

「……ううん、約束は約束。しちゃったからね、皆に申し訳ないし」

 なるほど、先回りしていたのか。じゃあ断っても他のやつに誘われるはめになってるんだな。ちっ、知能犯め。

「ん、そろそろ行かなくちゃ。またね」

「っああ、うん」

 立ち上がり手を振ると、微笑んで僕を見下ろすひとみ。僕はどんな表情をしたらいいか一瞬迷って、作り笑いを浮かべた。

 びたっびたっと重々しい足音をたてて歩き去っていったひとみの先には、手招きして「遅いっ!!」と潜めた声を張り上げている女子がいた。

 ごめんごめんと後頭部に手を添える彼女は僕がその様子を見届けている事に気付いて手を振ってくれた。

 今度は自然と口が弧を描き、僕は小さく手を振る。


 場面は転変、夏祭り。正確には『なつこい』といういつから伝統になったのかはよく知らない夏祭りだ。名前からして最近始まったものだろうが僕が物心ついた時には存在してた。多分それ以前から行ってる行事だろう。

 僕の住んでる田舎町じゃ一番大きい夏のイベント。学校の掲示板にも大きく女子高生がポーズ取ってる絵が貼られてる。カップルのデートには持ってこいの一大イベントだろう。

 僕も小さい頃は両親に連れられ、よく開催地運動公園の野球場に行ったものだ。今回もまた花火を見た記憶が塗り替えられるのだろう。

「翼くん」

 待ち合わせ場所でぼうっと空を眺めているとふと声をかけられる。

 振り返るとそこには浴衣姿のひとみがいた。

「ふわぁっ!」

 上から下、視線が上下して僕の瞳孔が彼女のそれを捉える。その反応だ。

「なにその反応」

「ん?いやなんでも」

 水色に赤と黒の金魚が泳ぐ浴衣の帯を両手で掴んだひとみは頬を膨らます。

「なによ言いなさい!」

「いやだからなんでもって……」

「いいから言え!じゃないと絞め殺す!」

 僕のシャツの襟首を掴み上げてくるひとみ。

「わあー!ひとみさんに殺されるーー!」

 ばたばたとわざとらしく手をバタつかせる僕にひとみはほんとに首元に手を滑らせてくる。これで力を込められたら本当に殺されかねない。大人しく従おう。

「分かったって、言うからさ。手え離して」

「分かった。じゃあ、言って」

 やっと殺害の手指を離したひとみはむすっとしながらも僕の言葉を待った。その行為に甘んじて少し崩れた襟元を直す。そして、一息。いや、ため息かな。

 ぼそりと呟く。

「なんかえろいなぁって」

「やっぱ殺すッ!」

 そう言ってひとみがその細い腕を僕の首に伸ばしかけてきた時、音が遠くから響いてくるのが分かった。『なつこい』の目玉にもなってるバンドの演奏だろうか。J-POPのような曲が流れてる。

 ひとみが振り向く。硬直して会場の方に目を向けてる、否、耳を傾けてるひとみの手を掴んでみる。

「こんな事やってないで行こうっ?」

「えっ?」

 ひとみは瞠目して、慌てて僕の顔を見る。そして顔を赤くして、

「あっ、うん……」

 そっぽを向いた。

 クラスの仲良くしてるやつらと合流する。彼らは僕を“友達,,だと思ってるみたいだけど僕はそうじゃなかった。ただ仲良くしてるだけ。ただそれだけだ。だから、ひとみよりかは口数が少なくて会話のラリーも続かない。だからひとみだけは特別だった。

「次じゃがバター食べたい!」

 屋台で購入したケバブを食い尽くしたひとみに連れ回される。

 僕の手を引っ張り歩くひとみにはほとほと疲れた。もうそろそろ休ませてほしい。てか、僕だけ何も食べてないんだけど。

「よく食べるね君は。痩せてるくせによく太らないもんだ」

「運動してるし育ち盛りだからなの!いいでしょ、付き合って」

 はいはい。僕は嘆息すると呆れ顔をして付き合った。

 かき氷を食べて、ひとみは舌を青く、友達の女子は黄色に染めて、あははと笑う。

 紅いりんご飴をガリッとかじるひとみ。そこは女の子らしくペロペロ舐める所じゃない?

 女子と男子に囲まれてきゃははと笑うひとみを見つめていると喧騒の中から、花火の打ち上げカウントダウンを宣告する女性のアナウンスが放送される。

 カウントダウンを始めます!

 ーー3、2、1、ゼロ~!

 ど、どん。ひゅ~っと高い音が夜空に反響して、のち、喝采。カラフルな光が黒い空を彩る。それが続いて続いて、スターマイン。

 お腹に響く低い音。ーー久々だ。久々の感覚。

 最後に、ぼんっ、パラパラパラーーと大きい花を咲かせた火花は灰色の煙を巻いて消えていった。

 焦げたような爆薬の匂いが微かに広がる会場を後にして仲のいいクラスメイト達と別れた僕は帰路を辿ろうとした時、ひとみに呼び止められた。

「ねえ翼くん。話があるんだけどちょっといいかな?」

「……なんだい」

 聞き返した僕は彼女の視線が気になった。斜め下を向いてる。どこかよそよそしい。

「こっち、来て」

「わっ、と」

 ひとみは強引に手を引っ張った。速い。歩くのが速いって。そんなに急がなくてもいいじゃないか。足がもつれる。待って、待って。いいから、

「待ってよ、どこいくのさ。痛いって」

「あっごめん、でもここで……だから」

 ぱっ、と手を離される。何なんだ一体。

(……噴水?)

 気付けば、足元まで水が流れ、水遊びが出来るよう設置されてる噴水の広場に連れられてた。彼女の背中しか見てなくて、逆に説明すると、周囲の事なんて眼中になかった。だって、浴衣姿が綺麗で、浴衣姿が似合い過ぎるひとみがそれ以上にすっごく、綺麗だったから。だからなおさら当惑した。

「……ふう」

 僕に背を向け、胸に手当てて大きく息を吐くひとみ。彼女が振り返ると、同時に噴水が吹き出した。バチャバチャと裸足になって足を噴水の水に浸す幼い女の子と男の子がいる。それを見守る二人のお母さんがいる。そんな光景を彼女は唇を緩くして振り向きがちに見つめていた。

「あたし達にもあんな時があったんだよね。あたしにも仲良くしてくれる友達がいた。でもここに来る時に別れちゃった。多分もう会えない。奇跡が起きない限り。ねえ、翼くん。あたしのその友達、男の子だと思う?女の子だと思う?」

 さあ、どっち?

 人差し指だけ立てた両手を持ち上げ、首を傾げるひとみに、僕は困惑してしまう。いや、困っていたい。その思考に捕らわれていたい。他の雑念に目を向けたくない。だってそれはあまりにも恐ろしい予想だから。だから考えたくーー

「じゃあ、質問を変えるね?その子に恋してたと思う?ーー思わない?」

 間を空けて囁いたひとみ。さらに数秒置いて、どっちでしょう?なんて立てた二つの指を揺らす。指を、振る。

 そこでやっと、はっきり知覚できた。彼女が何を言いたいのか。突然、走馬灯のように記憶がリフレインする。初めて会った時の彼女が顔を赤くして困ってた事。僕の太腿の間を見て耳まで赤くしてそっぽを向けた事。あの時、うそつきってぼそぼそ言ってたけどどこか嬉しそうだった。そして今も顔が朱い。

 今までひとみは誰かに恋してるような顔をしてた。その誰かは途中で気付いてた。そうだろ?気付いてたはずじゃあないか。それを見てみぬふりして鈍い自分を演じてた。高木翼という彼女の中の自分を演じてた。じゃあ、君のこれからの発言にはどうすればいいのか。一体どうすればいいのだろうか?

 分からない。君の気持ちには、

「じゃあ、答え言っちゃう。初恋だったの。そしてその人に君は似てる。だから翼くん」

 彼女が息を吸い込む。その決定打を僕にぶち込むために。

「あたし、翼くんが好き。付き合って」

 ……君の気持ちには応えられない。

「ごめん、付き合えない。君をそういう風に見れない」

「……そっか」

 ……。…………。………………。

 静寂。のち、

 バシン。

 乾いた破裂音。叩かれたのに気付いたのは自身の頬にじんわり熱を感じたから。

 ゆらり、僕は左のほっぺたを押さえる。彼女を、……そっと見やる。

 ひとみのその大きな瞳には大きな大きな涙の粒が溜まっていた。

 ーー泣かせてしまった。

「ばかっ」

 ぽつり、それだけ零して彼女は走り去っていった。カランコロンと音をたてて、すぐに僕の目の前から消えた。

 ……これで良かったのだろうか。

 ぎゅっとシャツの胸元を握る。

 その後悔の念だけが心を蝕んだ。


 夏休み明け、久々に彼女の顔を見た。あんな別れ方をしたのに彼女はいつものように笑っていた。男子に女子にクラスメイトに囲まれて、バカ笑いしていたそんな姿を見てちょっとほっとする。

 帰り際、近くの駄菓子屋に寄った。今にも潰れそうな小さな古びた駄菓子屋。店主がお爺ちゃんである所を見ると昔からあるんだろうな。

 十円ちょっとのグレープ味のガムを買う。店の前で早速口に放る。箱を傾けて口に直接。

 今日は部活が早く切り上がったので空も蒼い。青春の空、なんていうのかな。夏といえば青春だけど青い春、ではない。アオハルなんておかしいもの。

 球体のガムを噛むと甘い濃厚の味わいが広がる。うん、うまい。

 くちゃ、くちゃと咀嚼して風船を膨らます。パンと弾けて、ペロッとガムを集める。そんな事を繰り返していると一人の人影が隣に立った。ーー誰だ?

「おい、ヘンタイ」

 この声。

「おいっ、ヘンタイっ」

 聴きたくない。

「こっち振り向きなよっ」

 やだよ、顔も見たくないんだ、今は。

「このヘンタイスケベオタンコナス」

「なんだよ痴女……」

 振り向くと、案の定そこにはひとみがいた。立ってた。

「むうっ、この前告白してあげたのにそんな言い方はないじゃない」

 珍しく本気で怒った表情してる。ひとみの瞳が吊り上がってる。ひとみだけに。

「気まずいんだ、分かれよ。君とは話したくはない」

「あたしが叩いた事、そんなに怒ってるの?」

「……怒ってないさ、ただ君とは友達でいたかった。いや、なってほしかったんだ」

 ガムを箱の中に吐き捨てる。まだ味が残ってるけど。

「じゃあ、なってあげるって言ったら?」

「っ。……」

 ちょっとばかり瞠目してしまう。ーーしまった。

「嬉しいんだね。じゃあ、なってあげる、なってあげよう」

 あげようあげよう、なんて嫣然と頷く彼女に僕は迷う。ーーってかなんで迷ってるんだ。こいつと友達でいたかったんじゃないのか。

「ーーほんとになってくれるの?友達でいてくれるの?」

 うん。うそだ。うそじゃないよ。うそだ。うそじゃないって。じゃあ証明してよ。分かった。どうやって。こうやって。

 ぽんぽんっ。

 僕の頭に何か乗っかった。気付けば目の前に彼女の腕がある。彼女の手のひらが乗っかってる。僕の髪をその手が掻き分けるのように、とかすように、撫でる。

 愛撫する。

「はい、いい子いい子してあげたよ」

「だから……?」

 顔が熱い。……耳まで、熱い。

「これが友情のしるし。あたしなりのね」

「……そっ、か」

 俯く。地面に水滴が零れてる。今も。一粒、二粒。汗だと思いたいけど、全部がそれじゃあない。視界がぼやけて何も見えなくなってるから。眼球が沁みて、ちりちり疼いて、ちょっとひりひり。

 だからこれは、涙。

「あんたとの絆は断ち切れないよ、一生。絶対。約束する。だからいつかは、ーーいつかは気が向いたらあたしの気持ちに応えてね?好きだって」

 待ってるから。

「うんっ、うん。ありがとう。実は君が初めての友達なんだ。初友」

「なに『初友』って。初恋じゃなくて?」

「うん」

 涙ぐんだ涙声で言う僕に、ひとみは僕の眼に溜まった涙を親指で拭ってくれる。右に左に。その長い指で払い落として、照れ笑いを浮かべてる彼女には、この瞬間叶わなかった。いや、一生かもしれない。

 それぐらい彼女に傷付けられて救われた。それはこの後も。

 だから僕は彼女を憎めなかった。

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