7.チューリップ

「へえ、合歓さんは画家の方なんですね」


 奥の部屋を開けてアトリエを案内すると、右近は感心したように声を漏らした。


「ううん、改まって言われるのは、やっぱりしっくり来ないな」

「すみません。僕の記憶がないばかりに……」

「いいや、想定内さ。そもそも、このアトリエ自体に君を招いたことはなかったからね」


 嘘を吐いた。本当はどんな小さなことでもいいから反応が欲しかった。

 胸にちくりと走った痛みは、まるで指に刺さった棘が皮膚の内側に食い込んでしまっているように、服の上から胸元を絞るように握りしめても抜けてはくれない。もっとも、その棘花いげばなを用意したのは自分自身なのだから、弱音は吐きたくなかった。

 茨を避けることは容易いだろうけれど、欲しいものは茨の中にしかないのだから。


「その辺に掛けてある絵に、見覚えはないかな。たとえばあの時計の横の猫」

「まるで生きているみたいですね! ええと、こういうのは写実主義というんでしたっけ」


 返事の代わりに合歓は、一本指を立てて頷いた。

 口を開かなかったのは、そうでもしないと「それは憶えているんだね」なんて嫌味をぶつけてしまいそうだったからだ。高校で初めて彼と言葉を交わした時や、彼に想いを告げた時でさえ、こんなに言葉選びに慎重になったことはない。


「あの猫は君が見つけた捨て猫なんだよ。私の父が猫アレルギーだったりして、飼うことができなかったんだけどね。養護教諭の楠先生が引き取ってくれたんだ」

「僕の家ではダメだったんですか?」

「そんなところさ。そしてあっちの額縁に収めているのが、私の最高傑作だ」

「チューリップ……ああ、そういえば僕のあだ名だと仰っていましたね?」


 考え事をする時、左手の甲側を右肘に当てて、右手の指先をあごの先辺りで擦り合わせる癖が残っていたことに、合歓は思わず笑みが零れた。

 あれはまだ入学したばかりで、合歓と彼との親交もなかった頃だったか。クラスメイトから『ヘンテコなスペシウム光線』や『なんちゃって古畑任三郎』とからかわれていたのを憶えている。それが会話のきっかけとなり、イジメなどに発展しなかったのは彼の性格が穏やかだった故のことだろう。

 本人は地味に気にしていて、なかなか矯正に苦労したらしいことは後から聞いた。


「(……それにしても、難儀だね)」」


 クラスメイトの記憶がないから、癖のことも忘れているのだろうか。しかしそれならばいっそ、記憶を喪失した人は幼児退行しても不思議ではないだろう。

 脳裏に浮かぶ光景おもいでがなく、自我を形成する原風景きおくもない。自分なら立っていられなくなりそうだと思った。


「でも、どうしてチューリップなんですか?」

「チューリップの和名が鬱金香だからさ」

「オヤジギャグじゃないですか」

「失礼な、ちゃんと意味のある小粋な御手紙だ。赤いチューリップの花言葉は『愛の告白』。それが三本で『あなたを愛しています』、オツだろう? だいたいな、あの時先に仕掛けたのは君なんだぞ。鬱金の花言葉が『あなたの姿に酔いしれる』と知って、『僕は君の姿に酔いしれているよ……いるよ……るよ……よ……』とキザったらしい言葉をだなあ!」


 セルフエコーも付けて再現してやると、右近は恐ろしいものでも見たかのように肩を引いた。


「僕、そんな喋り方をしていたんですか……?」

「多分に誇張は含まれているが、要素がなきゃチューリップくんなんてあだ名が広まるわけないだろう。まあ主に、広めたのは私と茉莉花だけれど」

「元凶じゃないですか」


 馴染みのテンポで返って来るツッコミに、合歓はぐっと親指を立てた。

 やはりこれがしっくりくる。そして、これこそが彼の芯なのだと思うと嬉しかった。酔っぱらいが見せる本性や、痴呆の末に残る心根のように、記憶が取り払われたところにきちんと彼が残っていた。

 しかし、そんな幸福感に浸っていられたのも束の間のこと。


「それにしても、右近なんて単純な名前を付けたのは誰なんでしょうね。……あれっ? どうして今、単純って思ったんだろう。鬱金香から来ているのならおしゃれなのに」

「さ、さあね。そんなことより、他の絵を見てみないか!?」


 一瞬にして体温の引いた指先で右近の袖を引き、スペシウム光線を阻止する。直感的に、父親のことを思い出させてはいけないという気がした。

 部屋の隅に並んで立てかけているキャンバスから、一つを引き抜く。


「これは私たちがよく歩いていた並木道の絵だ。カラーロードは憶えていないかな?」

「ええと……耳馴染みはあります。ただ、どんなところかまでは」

「こんなところだよ」


 今引き抜いた新緑の絵に加えて、手前の一つと奥の二つも引っ張り出し、横に並べる。


「四季折々に色が変わる並木道だから、カラーロード――という自治体の願いにあやかって、君はこの絵に『ヴィバルディ』と名付けた」


 御覧、と手で示そうとした矢先、どこかからコンコンと叩く音が聴こえて、合歓は言葉を止めた。


「今の音は?」


 耳をそばだてる。よもや右近の幽霊を招いたが故にポルターガイストでも起きているのかと思ったが、どうやら音の出所は玄関の方らしい。


「先ほどの方が戻ってこられたんですかね?」

「だったらチャイムを鳴らしているだろう。まったく、現代にノック文化なんて、英国紳士じゃあるまいし」


 滅多に人の来ないアトリエに、今日だけで来訪者が三人だ。別にここで売買をしているわけでもないから、嬉しくもなんともない。


「受信料なら払ってますよー」


 溜め息を吐きながら玄関を開けると、そこには栗色の髪をした上品なチェスターコートの若い女性が立っていた。顔立ちはハーフ系なのか、日本人離れした彫がある。


「紳士じゃなくて淑女だった」

「……はい?」


 一瞬面食らったように目を瞬かせた彼女だったが、すぐに平静を取り戻すと、「申し遅れました」と名刺を取り出した。


「お初にお目にかかります。リンクスエージェンシーから参りました、兎耳とみみ・アイリス・ラヴィエと申します」


 そう言って、燕子花かきつばたの花弁が垂れるようにしなやかな礼をするのだった。

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