三、夏の果てに慈雨の涙



 贄として捧げられることが決まった日、これで本当に最後と、あの祠へ足を向けた。祠の扉を開けた時、樹雨は大きな瞳をさらに大きくして、思わずその周りを、ぐるぐると何かを探すように回り出す。


「そんな······どうして?」


 焦る気持ちと、泣き出しそうな感情に、胸が酷く軋む思いだった。


 自分以外、誰もこの場所は知らないはずなのに。誰かが見つけて、あの美しい玉だけ持っていってしまった?


 ないないないない······どこにも、見当たらない。


 その場にへたりと座り込み、樹雨は俯いて地面を見つめていた。


「龍神様、ごめんなさい。全部、私のせいです······私が、自分の事で精一杯で、ここにずっと来れなかったから」


 ぽたぽたと堪えていたはずの涙が、手の甲を、地面を、濡らしていく。草に落ちた雫が弾けて、土を潤すように。

 贄として、自分がこの村に雨を齎そう。そうしたら、この罪も赦してもらえるだろうか?


 ふわりと夏の乾いた風が頬に触れた。思わず、樹雨は顔を上げる。今、なにか、不思議な感覚を覚えた。気付けば涙が止まっていた。吹いた風で乾いたのだろうか。それともあまり水を飲んでいないから、涙まで枯れてしまったのか。


 しばらく座り込んでいたが、そっと扉を閉め、樹雨はゆっくりと胸元で両の指を絡めて祈る。


「龍神様、私はもうここには来ることができません。玉が消えてしまった今、あなたももう、ここにはいないのですか?もしまだ近くにいるのならば、どうか、村をお救いください。私のことはいいですから、どうか、村の皆を、お助け下さい。恵みの雨を、降らせてください」


 目を閉じて一生懸命祈る少年の後ろに立つ、端正な顔立ちの青年がいた。少年とは異なる、異国の白と青の服を纏う青年の瞳は金眼で、真ん中で分けられた前髪と腰の辺りまである長い黒髪の一部分が、珍しい薄青色をしていた。


 玉が消えたのは、少年のせいではない。どこの誰とも知らない者がこの祠を見つけ、祀られていた玉を持ち去ったのだ。それが、この少年が救って欲しいと懇願する、村の者の内の誰かであることを、知らないのだろう。


「どうして、もうここに来ることができない?」


 玉が無くなったから?

 確かに、何も祀られていないただの祠に祈るような物好きはいないだろう。


「なぜ泣いている?」


 そんなに玉が大切だったのだろうか?


 あれはただの水晶だ。遠い昔に、龍神を信仰していた村の者たちが勝手に建てた祠の御神体で、祀ったものが雨を齎すと信じていた。


 ひとり、またひとりと、いつの間にかこの祠の存在を知る者さえいなくなり、随分と長い間放置されていた。


 そんな中、何年も通う者が現れる。小さな子供だった。祠の周りを掃除したり、勝手に話しかけてくるその子供は、いつも道端に咲いていた雑草のような花と、粗末な供物を持ってやって来るのだ。


 こんな場所に子供ひとりで来るなど、親の顔が見てみたいと思った。が、どうやらその親はどちらも亡くなったらしい。


 身寄りを失った子供は少年になり、そして今、ここに来るのはこれが最後だと言う。姿を見えないようにしている龍の化身は、その金眼を細める。


 そもそも、どうして自分がひとのために、雨を降らせないといけない?

 関りもない村の人間を、救わなければならない?

 なぜ、この者は自分自身のことを願わない?


 その消え入りそうなほど白い頬に触れる。涙を拭う。言葉をかける。目の前の少年には届かないだろうと、知っていながら。


「俺は、どうして、」


 こんなにも心を乱されるのか。

 ただのひとの子に。

 その涙に、胸の辺りがきしきしと鈍い音を立てている。


 そしてあの日、空から降ってきたその少年に、手を伸ばす。


 もしここを通っていなければ、少年は谷底に叩きつけられ、四肢の骨が粉々になり、血肉が飛び散り、人知れず薄暗闇の中で死んでいただろう。



******



「······贄?」


 目覚めたその足で、樹雨は宮へと向かった。そして、ここの主であろう青年の前に跪くと、自分が誰であり、なぜ谷底から落とされたのかを説明する。それを聞いた目の前の美しい青年は、途端、嶮しい顔つきになった。


「はい。私は、龍神様の贄に捧げられた供物で······あ、あの、もしかしてあなた様が、龍神様なんですか?」


 おどおどとしながらも興味があるのか、跪いたまま上目遣いで見上げてくる樹雨に、青年、もとい龍の化身は嶮しかった顔を元の無表情に戻した。


「俺の名は白南風しらはえ。この谷に棲む龍神だ。ここは特別な領域で、俺とお前しかいない。樹雨と言ったな?なぜ贄になどなったのだ?」


 樹雨は素直に自分が贄になった経緯を話す。

 とても淡々と。

 そして言い終えた後に、なにかを諦めるかのように、小さく笑った。


「贄として、あなた様にこの身を捧げます。だからどうか、村をお救いください」


 それはどこまでも、曇りのない声。


 何の迷いもなくそんなことを口にする樹雨に、白南風しらはえはあの時と同じ感情が甦る。どうしてこの者は、自分を犠牲にしてまで村を救えと言うのか。


 顔には出なかったが、怒りと苛立ちと悲しみで、感情がどうにかなりそうだった。


「身を捧げる?そんなに俺に、その身を粗末に扱われたいと?」


 白南風しらはえは樹雨の腕を掴み無理矢理立たせると、そのままその身を抱き上げた。驚いた顔で樹雨は見上げてきたが、抵抗するという選択肢を持っておらず、これから自分が何をされるかも解っていないようだった。


「ひとがどうなろうと、俺の知った事ではない」


 気付けば寝台に組み敷かれ、自分を見下ろしてくる白南風しらはえを見上げていた。その表情はどこか悲し気で、樹雨はただそれを見つめることしかできなかった。月のような金の瞳に吸い込まれそうになる。


 樹雨は、自分でも気付かない内に泣いていた。ぽろぽろと零れてくる大きな雫が、顔の横を伝って敷物を濡らしていく。どうして泣いているのか。本当にわからない。わからないけれど、なぜか、あたたかい気持ちになった。


 怖い、ではなく、悲しい、でもなく。

 その感情がなんなのか、想像もつかない。


 そ、と涙を拭われる。

 同じくして、組み敷かれていたはずの指先から、温度が消えた。


「怖い思いをさせた····すまない、」


 自分の感情のままその細い身体を組み敷き、今にも襲いかかろうとしていた白南風しらはえは、樹雨を怖がらせてしまったことに後悔する。


 先程までの、怒りと苛立ちを含んだ強い感情が一瞬にして消え、樹雨の瞳から次々に零れ落ちる涙に、困惑した表情を浮かべた。


「ち、違うんです!そうじゃなくて······なんだか、嬉しくて」


 仰向けのまま、樹雨は解放された指先を胸元で絡めながら、自分を見下ろしたままの白南風しらはえを見つめる。頬に触れられた指先はあたたかく、怖いはずがなかった。


 その慈しむような笑みに、白南風しらはえは安堵する。


「本当にあなた様が龍神様なのだとしたら、私は、幸せ者なのです」


「自分の意思など関係なく、無理矢理贄に捧げられてもか?」


 そもそも贄など望んでいない。

 樹雨を贄にした村の者たちを、殺してしまいたいくらいだ。


 たったひとり、自分のために祈ってくれたこの少年を虐げた者たちを、喰いちぎってやりたいほど、怒りが込み上げてくる。


 しかし、それを目の前の者は望まないだろう。いつだって、他の誰かのために祈るような者なのだ。


「あの時、死ぬはずだった私の命は、白南風しらはえ様の物です。あなた様の役に立てるのなら、私は····」


 白南風しらはえの話が本当なら、今まで贄として谷底へ落とされていた少女たちを、丁重に弔ってやりたいと思った。

 

 けれども自分たちは、都合のよい願いを乞う弱い人間。


 雨が降れば、龍神様がくれた恩恵だと信じる。でも雨が降らなければ、役立たずの神だと罵るのだ。


「でもどうか、村の人たちを怒らないでください。善い人もいるのです。自分たちも苦しいというのに、助けてくれた人もいます。住んでいた家を追い出した人だって、本気で虐げるつもりなら、屋根のある建物すら与えてもらえなかったはず」


 どうか、ひとを見限らないで欲しい。

 自分が信じていた、優しい神様でいて欲しい。


「なら、樹雨。俺の、龍神のつがいになるか?」


 つがい、つまり夫婦になるということ。


「俺のつがいになってくれ」


 その突然の求婚に、樹雨は目を丸くする。本来贄は少女が担うが、自分は女ではないと説明もした。しかし冗談を言っているようには思えず、返答に困っていると、白南風しらはえが小さく笑みを浮かべた。


「答えは急がなくともいい。だが、雨を降らせろという、その願いはすぐに叶えよう」


 寝台から降り、白南風しらはえはそう言うと、ぼんやりとしている樹雨を残して、部屋から出て行った。先程の四阿あずまやとはまた違い、その部屋は広く、必要最低限の物しか置かれていない。


 天井を見上げたまま、鳴り止まない心臓の音に、樹雨は眼を閉じることすらできなかった。その心地好くも息苦しい胸の高鳴りに、ぎゅっと衣を握り締める。


「龍神様の、つがいに?私が?」


 雨を降らせてくれると、約束してくれた。つがいにならなくても。願いを、叶えると。ひとがどうなろうと関係ないと言っていたのに。


 その不器用な優しさに、胸の奥がぽかぽかとあたたかくなる。

 ずっと焦がれていた龍神様が、目の前にいる。


 これは、夢か幻だろうか。



 それくらい、信じられない今の状況に、樹雨はいつまでも起き上がれずにいた。

 


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