今宵、星屑喫茶にて
鈴懸葵
前編
雪が降っていた。大学のそばの、僕のお気に入りの散歩道。この国では、こうした
天気予報によれば今日は晴れとのことだけれど、なにせ空は気まぐれなものだから、今もこうして小さなこおりの粒を僕の頭に積もらせている。僕は鼻歌交じりに歩を進め、どこか雨宿りのできる場所を探した。……あれ?降っているのが雪だから、雨宿りという言葉ではおかしいかな。だけれども、あいにく僕は代わりになる言葉を知らなかった。
しばらくの間、雪道を歩いた。そのうちに陽が翳って、周りの家々の灯りがぼんやりと庭の草木に影を落とし始めた、そのときだった。
「喫茶……確かcafeのことだよね。」
建ち並ぶ家々の間、普通なら見落としてしまいそうな場所に”星屑喫茶”と書かれた看板を見つけて、僕は立ち止まる。この漢字は何と読むのだろう。星の後の一文字がどうしてもわからない。文明の利器に頼るべくポケットに手を突っ込めば、三百円均一の店で買った財布がはいっているのみだった。なるほど、スマホは大学寮においてきたようだ。僕はしばし逡巡してから、心を決めてその店のドアノブを引いた。
がちゃりという金属音とともに、ちりんちりん、とベルが鳴って、客の訪れを店内に報せる。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「一人です。」
日本に来てもうしばらく経つけれど、お店でのこういうやりとりは、僕はまだちょっぴり緊張してしまう。僕は一番手前のカウンター席に座って安堵の息を漏らした。
改めて店内を見回すと、お客は僕以外に一人しかいないようだった。因みに店員も一人のみ。個人経営の喫茶店、店長とみられる女性が僕に話しかけてくる。
「ご注文は如何致しますか?」
「え、ええと……その、おすすめは?」
メニュー表を流し見たものの、日本人の付き添いなしに飲食店に入るのは初めてで、カタカナと漢字を読み解けるほど頭が回らない。近頃は英語表記も増えてきたけれど、明らかに観光向けではない個人の店にそこまで求めては失礼だろう。こういうときはおすすめを頼めば間違いない、と同じく日本に留学している先輩が教えてくれたのを思い出す。
「……
「えっ」
端っこの席でカウンターに突っ伏していた先客がむくりと起きて口を開いた。まだ幼い少女だ、中学生くらいだろうか。少女の顔にはいかなる表情も見てとれはしなかったが、日焼けを知らぬ肌は病気を疑うほどで、腰まで伸びた黒髪と冬の夜空みたいな瞳が美しかった。
あぁ、そっか。この漢字はほしくずと読むのか……。
黙りこくった僕を訝しげに見つめて、少女は言った。
「おすすめメニュー。……あなたが聞いたんでしょう?」
なぜ店長に聞いたのに君が答えるのか。そう言いたかったけれど、もっと気になることがあったから、のどまで出かかった質問を飲み込んで言う。
「な、なるほど。でもその、僕、コーヒーは苦手なんだ。」
少女は心底不思議そうに目を見開いて言う。
「……大人なのに?」
「うっ……大人だって苦いの嫌いなひともいるよ。」
ふうん、と興味なさげにつぶやいてから、少女は店長に向きなおって言った。
「ルナさん、星屑珈琲とレアチーズケーキを一つずつ。もちろん、あそこのお客さんの注文でね。」
僕は止めようとしたけれど、少女はそれを制止した。
「大丈夫。ここのコーヒーは格別だから。」
そう言って少女は微笑んだ。
__これが、僕と君の出会いの話だ。
***
「こんばんは。今日はちょっと早いんだねえ。」
「うん。夜はバイトで遅くまでここにいられないから、早めに来てそのぶんの時間を取り戻そうと思って。」
「あはは、なんだいそれ。」
僕が星屑喫茶に迷い込んだあの日から、はや二週間。すっかりここのコーヒーに憑りつかれた僕は、毎日とは言わないまでも、足しげくここに通っていた。
「注文はどうするかい?」
「コーヒーと……今日はパンケーキにしようかな。」
「はいよ。」
店長……
そして、夕方から夜にかけての間、ここに来れば必ず君がいる。
「へぇ、パンケーキにするの。私、まだ頼んだことないかも。……私のとはんぶんこしよ?」
「やだね!大体、君のはもうほとんど残ってないじゃないか。」
「ショートケーキはいちごがすべて。つまりこれは全部残っているのと一緒。」
「なわけあるか。」
……君と僕はずいぶん親しくなったように思う。お互いの名前も、連絡先も知らないけれど、たぶん僕と君はもう友達だ。僕には友達らしい友達がいないからわからないのだけれど。…………誰がぼっちだ。
「あのさ、お互いの名前がわからないと不便じゃない?」
勇気を出して、僕は君に言った。僕、なんで子供と話すだけでこんなに緊張しているんだろう。
少女はきょとんとして言った。
「あれ?言ってなかったっけ。……じゃあ、ベガって呼んで。」
「ベガちゃん?」
「よろしい。」
ベガ……恐らくは、こと座のベガのことだろう。呼んで、ということはあだ名か何かだろうか。
とにかく、本名は教えてくれないらしい。まあ一応名乗ってくれた(?)ので、僕も名乗る。
「じゃあ、僕は君にすばるって呼んでほしい。」
「すばるくん?」
「よろしい。」
すばる。それは、
ルナさんのコーヒーを啜りながら、僕は君の方を見た。コーヒーは嫌いだったけれど、星屑みたいに砂糖が散りばめられたここのコーヒーは、苦みでさえ優しくて、香ばしい匂いは僕を安心させてくれる。
「すばるくんって本名じゃないよね。あなた、日本人じゃないし。」
「まあね。君だってベガって本名じゃないでしょ。」
「うん……あ、そうそう。」
そう言って、君は思い出したようにトートバッグから本を取り出した。
「それなに?」
「小説。」
「それは見ればわかるかな。」
それは彼女のお気に入りのミステリー小説で、僕に犯人を当ててみてほしいとのことだった。
「えぇ?僕、ミステリーとかあんまり読んだことないけど。ましてや日本語でなんて。」
「すばるくんなら大丈夫。……私と賭けをしてほしいんだ。すばるくんはその小説を一週間に一章ずつ読み進めるの。で、毎週ここでその内容について私と話す。実はこの小説は最後まで真犯人が明かされないんだよ。最後まで読み終えたその日に、私に犯人は誰なのか教えて、合ってたらすばるくんの勝ち。間違ってたら私の勝ち。どう?」
それはずいぶんと変わった本だな……。なんにせよ、その賭けの間は君と友達でいられるだろうと思って、僕は頷いた。
「参考までに、登場人物のリストを渡しておく。」
僕はリストを受け取って、寮に帰った。僕は本が好きだから、ちょっぴりわくわくしている。尤も、日本語の本は児童向けのものくらいしか読んだことはないけれど。
***
” __私が初詣に出向いてから、五度目の満月の日のことだった。……その大学教授が死んだのは。”
小説の冒頭、倒置法で始まった連続殺人ミステリー。舞台は東京、時代は現代。開幕早々見つかったのは、大学で数学教授をしている男の変死体だった……。
僕はフレディ・アンダーソン。大学二年、しがないイギリス人留学生だ。初めて星屑喫茶を訪れたあの日に月渚さんに書いてもらった地図を片手に、今日もそこへと向かっている。今日は初めてあの小説について君と話す日だ。
がちゃり、とドアを開けて、コーヒーの匂いのする店内に足を踏み入れる。ドアベルの音で振り返った君は、満面の笑みをうかべていた。
「小説、第一章はちゃんと読んだ?」
僕は彼女の方をちらっと見てからコーヒーとガトーショコラを注文して、奥から二番目の席……君の隣に座った。
「読んだよ。国語辞典と和英辞典を常備してね。」
「ふうん?」
「漢字がどうしてもね……」
月渚さんがコーヒーを渡してくれたので、お礼を言って少し口に含んだ。口内に広がる芳醇な香りが、僕の頭の中から日々の煩わしいことすべてを追い出してくれる。こちらを向いて僕の言葉を待つ君の後ろの小窓から、茜色に染まった陽光が一筋、僕らを射抜くように差し込んでいた。
コーヒーカップをソーサーに戻して、深呼吸する。揺れる黒い水面を見つめながら、その小説について、僕は話し始めた。
「……物語は、大学教授の変死から始まる。」
五月十八日午前八時三十分、ある大学で数学の教授をしていた男が死体で見つかった。場所は大学の使われていない教室、死因は右腕を付け根から切断されたことによる出血多量で、死亡推定時刻は前日の午後八時ごろ。被害者は首を麻縄で宙吊りにされた状態で、首は百八十度曲げられて顔が逆さについたような見た目だった。
ちなみに切り落とされた腕は近くの茂みで見つかった。凶器は不明、指紋やDNAを検出できるものもなし。
「よく覚えてるね。」
「そりゃどうも。……第一発見者は教授の教え子で、女子大生。そしてなんと、この二人はいわゆるパパ活の関係にあったことが捜査で明らかになるんだよね。しかも事件前日に揉めていたらしいこともわかっている。」
「……すばるくんはこの人が犯人だと思う?」
「いや、思わない。」
僕は待っていた、とばかりにその質問に即答した。すると、君は少し意外そうに言った。
「どうして?」
「パパ活程度の関係で、感情で……あの殺し方はないよ、絶対にね。」
そう、そうだ。今回最も怪しい容疑者……彼女には成人男性を縛り上げ腕を完全に切断する力もなければそこまでする動機がない。
「……ふうん。」
君は目を伏せて何かを考えこむ素振りを見せた。僕は構わず話を続けた。
「彼女が教授を殺すとしたら動機はなんだと思う?生徒が先生に媚びる理由……やっぱり成績を優遇してもらっていたとか?それがばらされそうで口封じ?その話は誰が警察に教えたのか覚えてるよね?」
「彼女の友人……」
「そう!しかもその友人は隠す素振りも見せずに情報を提供してくれた。彼女は口止めすらしていなかったんだ。つまり……」
「彼女は口封じのつもりで殺したわけではない……」
「うん。しかも、彼女は成績がずっと普通なんだよ。取り立てて良くも悪くもない。よって彼女にはあんな残忍な殺し方をする理由がないし、自分に不利なことを隠しもせず第一発見者になるなんて、犯人とは思えないね。おおかた、事件直前の揉め事について話し合おうとして被害者を発見したんだと僕は思うな。」
一通り僕の話を聞いた君は、三度、ゆっくり瞬きをして口角を上げた。
「想像以上だ……フレディ・アンダーソン。」
「え?何?」
「……なんでもない。」
君の声は小さすぎて、僕には聞き取れなかった。
今宵、星屑喫茶にて 鈴懸葵 @aoisuzukake
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