第4話・夏、1


 ――というわけで、一旦時を戻そう。

 

 今、私の目の前には、黒い笑顔をたたえた時の皇帝・ツァイ颯懍リェン様がいらっしゃる。

 近くで見ると、陛下は驚くほど整った容姿をしていた。絹のように柔らかそうな長い髪はひとつに束ねられ、瞳はまるで、星空を閉じ込めたかのような深みのある藍色。すっと切り立った頬には長い睫毛の影が落ち、形のいい唇はかすかに三日月形をしていた。

 そして、ときおり流星が流れていそうな神秘的な藍色の瞳で、陛下は私をじっと見下ろしている。

 

 そうだった。見惚れている場合ではなかった。私は今、絶体絶命の状態だった。

 ばれたのだ。皇帝に、私たちの正体が。

 

雪玲シューリン。いや、暁明シァミンだったかな?」


 陛下の細く長い指先が、さらりと私の首筋を掠める。びくり、と肩が震える。


「お……お止め下さい、陛下。ここは外廊。誰が通るか分かりません」

「悪い。聞こえないな」


 陛下がにやりといたずらに笑う。

 鬼がいる。美しい鬼が。


 私はひとまず、すうっと息を吸った。


 誰かー!!

 暁明ー! 助けてー!

 叫んでも意味がないのに、必死に叫ぶ。もちろん、口に出すほどの度胸はないので、心の中で。


 なぜ、陛下に私の正体がばれたのか。私はつい数刻前のできごとを思い出そうと、頭を必死に動かした。



 ――事件が起こったのは、柳が風にさわさわと揺れる初夏。城に忍び込んで、半月が経ったつい昨日のことだった。

 

 私はいつも通り、薄鼠色のほうから女官の華やかな翡翠色の襦裙じゅくんに着替え、こっそりと暁明シァミンのいる後宮に忍び込んだ。

 暁明は運良く貴妃に取り立てられ、麗和宮れいわきゅうという宮で侍女になっていた。個室が与えられ、割と贅沢な暮らしを満喫している。なんだかんだ、運と人にだけは恵まれる弟である。

 

 そんな麗和宮は、なにやら騒がしかった。


 侍女たちの慌てた様子から、今晩妃の元へ皇帝のお通りがあることを知った私は、急いで暁明の部屋に向かった。


「これから、陛下のお通りがあるのね」

「うん、そうなんだ。だから早く入れ替わらないと。雪玲、大丈夫? これから雹華ヒョウカは陛下と夕餉をとる。配膳も食後のお茶も、全部僕の仕事だからね。手順は分かってるよね?」

「うん、大丈夫、まかせて!」


 胸を張りながらも、そういえば、と、私は気になったことを訊ねてみる。


「でもさぁ。なんで全部暁明がやるのよ。ほかにも侍女いるんでしょ?」

「それはそうだけど……」


 暁明が口ごもる。


 まさか、いじめられているのだろうかと、私は帯を巻きながら、ちらりと暁明をうかがい見た。しかし、暁明は戸惑うというより、少し照れたような顔をしている。


「なんか、雹華妃に気に入られちゃって」

「あらまぁ……」


 口元がにやける。ちょっとからかってやろうかと口を開きかけると、それを察したかのように、暁明に帯を強く締め上げられた。


「うぐっ……ちょ、暁明! 苦しいっ!」

「雪玲、ちょっと太った? 宮廷料理食べ過ぎなんじゃない?」


 ぎくり。


「そ、そんなことないよ」

「食べ過ぎはだめだよ」

「分かってる分かってる」

「お腹、鳴らしちゃだめだからね!」

「だから、分かってるって」


 そして、暁明の部屋で無事入れ替わると、私はせっせと侍女としての勤めを果たすのだった。

 

 

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