エッセイ集「捨て置き書き」

久田高一

ウインカーの郷愁

 あの日、大渋滞にはまり、気が立ってしまってからというもの、カーステレオは切っておくことにしている。どうも鋭く弱った神経には、音楽が五月蠅すぎるのである。

 代わりと言ってはなんだが、ウインカーを聴く。「こちっこちっ」という軽さが心地良い。

 私がまだ幼い時分、正月に祖父宅に親戚一同が会するというイベントがあった。大人は酒を囲み、子どもはテレビを囲んでいた。穏やかな喧噪のなか、酔っぱらい、いつもより少しだけ饒舌な父の姿を、子どもながら好ましく思っていたことをよく覚えている。ずっとこの時間が続けばいいのに、なんて思ったりもした。

 楽しい時間の厄介事は、別れ際である。どういう取り決めがあったのかはわからないが、我が家はいつも真っ先に帰った。親戚一同が手を振っている。その姿が狭い路地の地平線に沈んでしまう寸前まで、挨拶は出来なかった。言ったら終わりであるから。

 しかし、そんな寂寥の心も高速道路を半分も過ぎれば、けろり治ってしまう。されば、次にやってくるものは何か。眠気である。それは大人も同じようで、母もこっくりこっくりやっていた。眠れないのはハンドルを握る父だけである。父は寡黙で慎ましい人であったから、起こすようなこともしない。私もなんとなくバツの悪さを感じながら、結局寝入ってしまうのだった。

 ふと、目を覚ます。もはや知覚できない、心地の良いロードノイズの他に、音が聞こえた気がする。それが、ウインカーであった。高速道路をずっと走ってきたわけだから、ウインカーは下道に入ったことを意味する。帰ってきたのだ。それは、またもとの生活に戻っていくことも意味していた。もう昨日に戻ることはない。つまりは、ウインカーは、内に余韻と寂寥を秘めながら、現実に向き合っていく人間の象徴であった。そういう思い出が、私のなかに溜まっていた。

 今はもう、親戚は集まらない。

 だから、心惹かれる。郷愁である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エッセイ集「捨て置き書き」 久田高一 @kouichikuda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ