記憶の最果て
@kojihayakawa
第1話
「一緒に死のっか」
彼女は穏やかな笑みを浮かべながら
まるで楽しい旅行の計画をたててでもいるかの
ような軽やかな口調で、そう言って微笑んだ。
引越しの荷物の段ボールも開けないままの部屋でこの日の為に用意したブラックニッカと大量の頭痛薬の混じった吐瀉物の前で朦朧とした
意識でブルブルと無意識に震えている俺の眼の前に吐瀉物を踏みつけてしゃがみ込んだ彼女は
穏やかな優しい笑顔で唯真っ直ぐな、本当に
真っ直ぐな視線を俺に向けてじっと見つめている。
意識が朦朧としているからなのか、彼女が
まるで何一つ汚れを知らない天使のように
輝いて見えたのは微かに覚えてはいるのだが、
その後病院のベッドへと辿り着くまでの記憶は
まるで抜け落ちたまま未だに思い出せないで
いるし、俺が一体どうして自らの命を絶とうと
決意したのか、何か大きなきっかけがあったのかはっきりした事が何一つ定かではないのである。
唯、俺はずっと生きる事に絶望し、この世から消えてなくなってしまいたいと思い続けていた事だけは紛れもなく事実ではあるのだが。
強いアルコールの所為なのか、大量に飲み込んだ頭痛薬の所為なのか、自らを傷つける事への恐怖心からなのか、望み続けた死への恐怖心からなのか、右手に握りしめているナイフの先はキラキラと光を反射しながら震えていて
左手首の血管に押し当てて刺身を切る様に
ナイフを手前にそっと引いてやる、そんな
簡単な事さえも覚束ないでいる。
込み上げてくる吐き気を胃袋の方へと
押しやる気力も湧かず壁にもたれてへたり込んで折り曲げた両足の間に一気に吐き出してしまうという凡ミスをやらかしてしまっても
相変わらずキラキラと震えるナイフをぼんやりと見つめている事しか出来ず、涙やら鼻水やら
涎までも垂れ流して、俺は何分も震え続けていた。
どれだけあの世の入り口で放たれる様な
悪臭のなかで身動きも取れず、震えていたのか
解らないが鍵も掛けずにいた部屋のドアノブが
突然にカチャリと下に降り、いつもの様に、
引越しをする以前の安アパートに彼女が帰って
くる時と同じ様に、少しだけ気恥ずかしそうに
少しだけ控えめな声色で、
「ただいま〜」
と玄関から聞こえてきた。
ゴソゴソとエンジニアブーツを脱いで
軽やかな足音を立てて彼女はまるでバレリーナの様に、新居での新しい生活への喜びを踊りながら表現しているかの如くリビングへと入ってきたのだが、その幸せなダンスは一瞬にして悪夢へのエチュードの様に変貌して、ドタバタと慌てた足音に変わり朦朧とした俺の前に立ちすくんだ。
彼女は俺の姿と吐瀉物、いつだか俺がガキの
頃からの宝物なんだと見せてもらった刀身に
唐草の様な模様の入った20cm程のナイフを
見渡して、全てを理解して俺の前に静かに
ゆっくりとしゃがみ込んで唯一言だけ
余りにも寛容で、他にはどんなに言葉を尽くしても言い表せない感情を俺に優しく投げかけた。
朦朧とした意識のなかでも、彼女の声は
緑緑と繁った森林の日差しの様に俺の心に
すうっと沁み込んできて、俺は生まれて初めてと言っても言い過ぎではない程の安らかな気持ちに包み込まれて、ゆっくりと長く安らかな眠りのなかに静かに落ちていった。
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