第一章 ~『優しいだけの婚約破棄』~


 焼いたクッキーをラッピングしたクレアは、ルインが滞在している客室を訪れる。彼の希望で客室は角部屋だ。騒がしいのが苦手だと、屋敷の中心部から離れた位置に部屋を用意させたのだ。


「ルイン様、いますか?」


 部屋をノックする。しかし反応はない。


(留守でしょうか?)


 屋敷の中でも人目に付かない客室のため、使用人たちも行方を把握していないだろう。諦めて帰ろうと決めた時だ。扉が僅かに開いており、部屋の中から女性の声が聞こえてくることに気づいた、


 嫌な予感が頭を過る。ルインの許可なしに踏み込んではいけないと理性が訴えかけるが、本能がどうしても確認せずにはいられなかった。


 物音を立てずに部屋の中へ入る。天井にはシャンデリアが吊り下げられ、赤い絨毯が敷かれている。折角の瀟洒な室内なのに、窓にカーテンが下ろされ、光が入らないようにされていた。


(まるで後ろめたさを表現するかのように暗い部屋ですね……)


 その疑念はすぐに確信へと変化する。二つの人影が重なり合う光景がしっかりと輪郭を描いていたのだ。


 その人影の正体は銀髪赤眼のルインと、金髪青眼のサーシャだった。二人は唇を重ねており、悪い予感が現実だったと理解する。


「ルイン……様……」

「クレア、どうしてここに……」


 ルインは目を見開いて驚きを示すも、すぐに冷静さを取り戻す。一方、浮気相手のサーシャは慌てふためいていた。


「ち、違いますの、お姉様。これはただのスキンシップで」

「サーシャ、言い逃れは無理だ」

「ですが――」

「それよりもこれはチャンスだ。遅かれ早かれ、こうなる予定だったのだからな」


 ルインは整った口元に歪な笑みを浮かべ、クレアにとって絶望の言葉を続ける。


「俺は優しいくらいしか長所がない貴様に飽き飽きしていたのだ。婚約を破棄させてもらうぞ」


 非情な宣告を告げられる。その言葉を受け入れられず、視界が歪むも、ルインが口を閉じることはない。


「そもそも俺は婚約に反対だったのだ。貴様は両親が誰かも分からない養子の娘だ。もしかすると、貴族どころか平民の可能性さえある。俺は一族に下賤な血が混じることに耐えられないのだ」


 理不尽な物言いだ。さすがに温厚なクレアでも反論せずにはいられない。


「確かに私は養子ですが、きちんとした公爵令嬢です」

「書類上の身分はな。だが血は下賤だ。しかしサーシャは違う。公爵家の血筋が確約されているのだ。なら俺がどちらを選ぶかは明白だろう?」

「――ッ……少なくとも、あなたが最低の人だとは理解できました」


 浮気しておきながら開き直るルインに対して、クレアは怒りを湧き上がらせていた。だが彼も理不尽に感情を昂らせる。


「なら俺も言ってやる! 貴様の庶民的なところが我慢ならんのだ!」


 ルインはクレアからラッピングされたクッキーを奪い取ると、それを足で踏みつけて粉々にする。愛情を込めた菓子を踏みつけられたことで、彼女の愛も砕け散った。


「このゴミを拾え。貴様は女中のように振る舞うのが相応しい」


 怒りに耐えながら、クレアはクッキーを拾い上げると、客室を飛び出す。背中に嘲笑が向けられ、屈辱に奥歯を噛み締める。


(ルイン様も、サーシャも最低です)


 肩を落として、廊下をトボトボと歩く、怒りと悲しみが膨れ上がり、涙さえ出てこない。


(泣かないで済んでいるのは、二人に対する怒りより、自分を許せないからですね)


 人に優しくすれば、きっと幸せになれる。そんな言葉を妄信し続けてきた自分の愚かさに腹が立ったのだ。


「クレア……ッ――どうかしたのかい?」


 廊下の向こう側から近づいてきたギルフォードに声をかけられる。心中を見透かすような瞳を向けられ、隠し事はできないと知る。


「実は……婚約破棄されちゃいました」


 粉々になったクッキーと共に事実を伝えると、すべてを察したのか、ギルフォードは瞳に怒りの炎を灯しながらも冷静さを保つ。


「許せないね」

「お兄様……」

「でもその前に……クッキーを貰ってもいいかな?」

「ですが、これは粉々に砕けて……」

「構わないさ」


 ギルフォードは答えを待たずにラッピングされたクッキーを受け取ると、砕けた欠片を口の中に放り込む。


「うん、愛情のこもった美味しいクッキーだ。さすが僕の妹だよ」

「お兄様……ふふ、おかげで悲しみが吹き飛びました」


 婚約者がいなくとも家族がいる。それだけで十分に幸せだと再認識し、クレアの表情に笑みが戻る。


「婚約破棄されたのは残念ですが、巡り合わせが悪かったと忘れることにします」

「それは駄目だよ。忘れちゃ駄目だ」

「でもお兄様……」

「安心していい。僕の大切な妹を傷つけたルインにはきちんと地獄をみせてやるから」


 ギルフォードは端正な口元に歪な笑みを浮かべる。それはクレアでさえ初めて見る彼が本気で怒った顔だった。


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