後編
彼の影が、真ん中からさらに右へ動いていた。汗もこれまでにない量になっていた。帽子が頭から少しずれそうになっているのが感じられる。ここまで暑いのはマフラーを巻かれたからか? いや、それは関係ないようだ。やはりこの日光が原因のようだ。数時間前の母親と客の女の話を聞くに、昨日は非常に寒かったらしい。天気はどうだったのだろうか。今日は雲一つない青空なのだが。
するとここで、彼の中である疑問が生まれた。なぜ自分には昨日の記憶がないのだろうか?
「お前すげえな」
近くから声が聞こえた。彼の疑問は一旦打ち消された。目の前には弟とその友達と思われる同い年くらいの男の子がいた。声は弟の友達だった。
「すごいだろ、昨日作ったんだぞ」
「一人でか?」
「お兄ちゃんと作ったんだ」
「すげえなあ、俺も昨日作ったらよかった」
「今からでも作れないの?」
「もう無理だよ、作れてもちっちゃいのだけだよ」
この友達はバスの中から彼の姿を見てわざわざ家まで遊びに来たらしい。友達は他にも彼の帽子のこと、マフラーのこと、本当はどれくらいの大きさだったのかということ等、多くのことを弟に訊ねた。
「二人とも、公園に遊びに行かなくていいの?」
母親が家から顔を出して声をかけた。二人は思い出したように、慌てて公園へと遊びに行った。
何気ない風景を眺めながら、彼の心は動揺していた。彼をざわつかせたのは弟のあの言葉――「昨日作ったんだぞ」――つまり自分はこの家の兄弟に作ってもらった存在だということになる。ということは、自分は昨日彼等の手で生み出されたということになるのか? もしそうだとすれば、彼等は人体錬成が可能な人間だということになる。そのようなファンタジックなことが有り得るのだろうか――。
もう一つ彼が気になったのは、友達が自分の大きさについて訊いていたことだった。つまりあの友達は自分の大きさがもっと大きかったはずだと推測しているらしいのだ。彼はあることに気づいた。初めは自分で崩していた姿勢が、いつの間にか自分の意志とは関係なく崩れていっていることに! 視線が最初の時より低くなっている――。
太陽がさらに傾いてきた。影もさらに長く右に伸びていく。汗は昼間より少なくなっていた。だがそれでも体が濡らされているのが分かる。足下の水たまりもかなり増えてきた。目線もさらに低くなった気がする。
また車が家の前に停まった。今度はトラックである。運転席から出てきた作業着姿の若い男が、トラックの荷台から一つのダンボール箱を取り出した。彼にもこの男の目的が分かった。荷物を届けに来た宅配業者だった。
男は朝の郵便屋と違い、彼に興味を持った視線を投げかけた。しかしすぐに仕事のモードに切り替えた。
「宅配便でーす!」
チャイムを鳴らした後、男の威勢の良い声が響いた。家からまた母親が出てきた。昨日の記憶のない彼には、普段からこの家にこんなに来客が現れるものなのか分からなかった。
「ありがとうございました!」
男は仕事を済ませると、トラックへと戻ってきた。ほぼ同じ光景を、朝に彼は見ていた。
ところが、ここで朝とは違うことが起きた。男が彼の前にしゃがみこんだのである。男は彼に語りかけるように話し始めた。
「お前は良いよな、そうやって座ってるだけで何もしなくていいんだしさ。俺だって本当は夢あって田舎から出てきたけど、結局こうやってバイトして稼ぐしかねえんだもんな」
男は小さく溜め息を
「俺の人生って何か意味あんのかなあ」
この男がこれまでどのような人生を歩んできたのかなど、彼は知る
「そうか、かなり溶けかかってきてるのか」
そう言った若い男は勢いよく立ち上がると、元気を取り戻したようにまた独り言を続けた。
「そうだよな、こいつの人生は一日だけかもしれないけど、俺の人生はこの先何十年ってあるわけだ。何回もやり直せるチャンスがあるだけ、俺の方が幸せなのかもな」
男は再びトラックに乗り込み、そのまま別の宅配先へと向かった。男の急な心変わりを、彼は可笑しく思った。
だが、気楽に考えていられるのは一瞬だけだった。男は自分を「かなり溶けかかってきてる」と言ったのである。彼は汗をかいているのではない。溶けているのだ!
太陽は彼をさらに照らしつける。彼の目線はさらに下がっている。顔と地面がさらに近づいている。もしかすると自分はこのまま消えてしまうのだろうか――。
最期にこの家の兄弟に会いたい。彼の望みはそれだった。しかしその思いも虚しく、彼はさらに小さくなっていった。
俺の人生って何か意味あんのかなあ、という宅配業者の男の言葉が思い出される。この家の兄弟に生み出され、動くこともできず、何も喋らず、後はただ溶けていくだけの人生――自分の人生には何の意味があったのだろうか? なにより、こうしてたった一日で消えてしまうなんて、あの兄弟なんかよりも、自分の方がよっぽどファンタジックな存在ではないだろうか?
彼は最後の力を振り絞って辺りを見回した。今まで彼は来る人来る人を気にしていて、しっかりと注目していなかったのだが、消える前に周りの風景を目に焼き付けておこうと思ったのである。
彼を照らす夕陽は、家も道も同じように輝かせていた。まだしっかりと乾ききっていない道は光を反射させて、まるでクリスタルの洞窟のようだった。家々の屋根は鮮やかに陰影を浮かび上がらせて、夕方特有の幻想的で寂寥感のある光景を映し出していた。
彼にはその光景を美しい以外の形容で表現することができなかった。自分の生きた意味はなかったかもしれない。だがこの光景を目に焼き付けることができたのは、この世に生まれなければできなかったことだ。自分を生み出してくれたこの家の兄弟に、彼は改めて最大の感謝を送った。
この景色を見ながら、自分はもうすぐ消える。彼の汗はもはや汗とは呼べないほどの量になっていた。もう少しすれば、汗の量が自分の本体の大きさを超えるだろう。いや、もう超えているのか。彼は段々と地面に吸い込まれているような気分になってきた――。
太陽が沈み切らないうちに、この家に二人の兄弟が帰ってきた。
「あれ、もう無くなってる」
兄の方が声を上げた。弟は帽子とマフラーを拾い上げた。
「このマフラー着けてもらったんだよ」
弟が兄に嬉しそうに伝えた。
「ほんとか! 見たかったなあ」
「遅かったじゃない、何してたの?」
二人の声が聞こえたからか、母親が家から出てきた。
「帰ってる途中で会ったから一緒に遊んでたんだ。ねえお母さん、このマフラーどうしたの?」
「近所のおばさんが貸してくれたのよ。明日返しに行くから、あんたも付いてくる?」
「うん!」
「じゃあ、明日は早く帰ってらっしゃいね。さあ、帽子とマフラーを頂戴。ちゃんと洗わないとね」
二人は家の中へ戻った。
「濡れてる、濡れてる、ビチョビチョ、ビチョビチョ」
弟は帽子とマフラーを片手に持ちながら、なぜだか楽しそうである。
彼がいた場所にはちょっとした水たまりができていた。この水たまりも、明日にはすっかり消えているだろう。
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