汗
鬼平主水
前編
気がついた時には、彼は家の前でじっと座っているだけだった。なぜ家の前にいるのかも覚えていない。家の中に入ろうとも思わないし、そもそも入ることができない。動くことができないのだ。縛られているとか怪我しているとか、何か大きな理由があるわけではないが、ただ、動けないのである。本人の意思で動こうともしていない。じっと座っていることで、彼に困ったことは特にない。
いや、一つだけ困ったことがあった。汗が止まらないのだ。太陽が彼を照らし始めて少ししてから、彼の体から少しずつ汗が流れ始めた。汗は顔から体から、あらゆる場所から流れていたが、彼はそれを拭おうとはしない。彼は帽子をかぶっていたが、その帽子を取ろうともしない。
今は午前十時頃だろうか。
彼は携帯電話はおろか、時計すら持っていない。時間は太陽の昇り具合でなんとなく分かるだけだ。
この時間の住宅街を歩く人はまばらである。皆、彼の方へ目を向けることはない。寒そうに両手を擦り合わせる老婆、コートに首を沈めるようにしながら歩く会社員、防寒も兼ねているのか分厚そうな布地で作ったマスクで買い物に出かける主婦――汗をかいている彼にしてみれば、なぜここまで皆が寒そうにしているのかが理解できなかった。さらに彼にとって不思議なのは、そんな暑そうな格好をしていながら、汗をかいている人が誰もいないことであった。
家の前に一台のバイクが止まった。ヘルメットとマスクを着け、黒っぽいジャンパーを羽織っていた。バイクの荷台には赤い箱が載っている。郵便屋であることが彼にも分かった。しかし郵便屋は手紙をポストに入れずに家のチャイムを鳴らした。
「代引きです」
家の中から住人が出てきたらしい――らしいというのは、彼が後ろを振りむけないために、家主の様子を窺うことができなかったからだ。
実は彼とこの家とは特に関係があるわけではない。だが彼はこの家の家族構成を知っていた。
父と母、その息子の二人兄弟の四人家族である。両親がどんな仕事をしているかは分からない。兄弟のうち、兄が小学生、弟がまだ幼稚園児である。ただし二人の年齢は分からなかった。彼はこの兄弟二人に対して、理由は分からないが感謝の念を抱いていた。ここにじっと座っていられるのも、この二人のおかげな気がしていたのである。
出てきた住人は母親だったようだ。彼女はお金を払い、残りの郵便物も受け取ったらしい。
「ありがとうございました」
非常に業務的な謝辞を郵便屋は残してバイクまで戻ってきた。郵便屋はふと彼の方に一瞥を向けた。だがそれ以外に郵便屋の反応はない。彼もまた、郵便屋に対して何かしらのアクションを起こすわけでもない。ああ、自分のことを気にしているんだな、と考えているだけである。郵便屋は特に彼を見て何か感じたわけではないらしい。郵便屋はそのままバイクを走らせた。
太陽はさらに高くなった。彼の汗の量は今までよりもさらに増えてきた。彼の足下は汗で濡れてきている。帽子も徐々に湿り始めている。
そこに一人の女が近づいてきた。マフラーと手袋をつけた彼女は、何かが入ったビニール袋を何袋か持っていた。
女は家の前に立つとチャイムを鳴らした。
「どうかしました?」
中から母親が出てきたようだ。客の女がビニール袋を母親に渡しているのが分かる。
「昨日息子からミカンが届いたんだけど、量が多すぎて食べきれないのよ。今ご近所さんに配ってて、良かったら食べて」
「まあ、良いんですか? ありがとう、子供たちが喜びます」
母親は嬉しそうだ。何の波乱もない、平凡な日常の一コマだった。
「にしても今日も寒いわね」
先程から客の女は寒そうにしている。
「昨日に比べたらましですよ。昨日はほんとに寒かったから。天気予報でも今日は三月並みって言ってたし」
「でもダメ、他の人も今日はあったかいって言ってたけど私は無理」
「子供たちは喜んでたんですけどね」
「子供は良いわよ。こんな時こそ遊び甲斐があるんだから」
この会話を聞いていた彼は、もしこの女と一つ屋根の下で暮らさなければならないとなったら、きっと三日も持たずに別居することになるだろう、と思っていた。こんな暑い日にこの女は何を寒がっているのか。
「じゃあまた」
客の女が帰ろうとすると、彼の方へ目を向けた。
「あら、気づかなかった。かわいいわねえ」
彼は少し恥ずかしくなった。褒められるのは初めてだった。しかしその嬉しさも次の言動で打ち消された。
「そうだ」
何か思いついた女はおもむろにマフラーを外した。そして手にしたマフラーを、あろうことか汗まみれの彼の首に巻いたのである。
「あんたも寒いでしょ? これであったかくなるからね」
なんと
その様子を、母親が見ていたらしい。彼女は女に近づいた。彼は母親が注意してくれるのを期待した。
「すごい、良く似合ってる」
彼の期待は外れた。女と一緒になって喜んでいる。
「でも良いんですか?」
「良いのよ、こういうの見てたら私も懐かしい気持ちになっちゃったから」
女はニコニコしながら彼を見ている。つい先程までなら、彼も嬉しさで照れただろうが、勝手にマフラーを着けられた今、彼女の笑顔は嫌悪感しか催さない。
「確かに、私も子供が羨ましくなっちゃうんですよね」
母親も呑気なものである。しかし彼女の息子達に恩義を感じている彼は、母親のことを悪く思わなかった。
「また明日洗って返しますね」
「別に良いわよ、高いもんじゃなし」
そう言って女は改めて別れの挨拶をし、帰っていった。彼は今すぐにでもマフラーを外してもらいたかった。
昼の十二時を超えた。それは太陽が頂点に来たらしいところからも分かる。この太陽の動きも、彼が直接太陽を見ているわけではない。彼は自分の影を見ていたのである。影が左から真ん中へ、長さもそれに合わせて短くなっていく。
汗の量はさらに増える。まるで溶けてしまいそうなくらいに。それでも彼は動くことができない。一応姿勢をある程度崩すことはできるため、彼は楽な座り方に変えた。少し目線が低くなった。足下の汗が、少しずつ水たまりになっていくのが目視でも分かる。
家の前にバスが停まった。側面にはかわいらしい絵が描いてある。どうやら幼稚園のバスのようだ。その音を聞いた母親が家から出てきた。その理由は彼にも分かっている。このバスには下の方の息子――つまり弟が乗っているのだ。元気よくバスから飛び降りた弟は、先生や他の子供達に手を振った。
「バイバーイ」
「またねー」
バスが走り去ると、弟はすぐに家に入ろうとした。それを母親が止めた。
「ねえ、これ見てよ」
母親は弟を彼の前に連れてきた。弟はじっと彼を見つめる。
「マフラーだ!」
弟は気がついて嬉しそうな声を上げる。
「誰の? 誰の?」
「ご近所のおばさんが着けてくれたのよ。今日一日着けといて良いよって言ってくれたから、明日幼稚園から帰ってきたら、一緒にお礼言いに行こっか?」
客の女は明日返せとは言っていないのになあ、と彼は不思議そうに聞いていた。
「うん行く!」
弟の嬉しそうな声を聞くと、客の女がしたこの行為も悪くない気がしてきた。
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