無言電話

鬼平主水

第1話

 この街には年寄り達の憩いの場のようにもなっている診療所があった。

 内科を専門としているその診療所――『尾高医院』の院長、尾高雄一はその正確な診療から非常に人気が高かった。

 ただし反面非常に愛想のない人物でもあった。彼の診察のおかげで病気を完治させた患者がお礼に訪れても、「ああそうですか」の一言で済ましていた。あくまでこの病院が人気なのは、彼の的確な診察と、それを目的に訪れた患者同士が会話を楽しむ場と化していたからだと言っていい。

 そのため、性格面で衝突する患者がいるのも事実であった。特に彼と仲の悪い患者がおり、今日もその相手を雄一はしていた。


「経過は良好ですから、またお薬が無くなったらお越しください」


 患者は三宅という男だった。70歳を過ぎた彼は心臓に疾患を抱えており、雄一の処方でもらっている薬で平常を保っていた。三宅も初めてここを訪れた時は雄一の診察に感謝をしていたが、通院するうちに彼の冷たさに辟易するようになっていた。別の病院を探すツテもないうえ、結局雄一の処置が的確であるため、渋々この病院に通っているようなものであった。

 患者の顔も見ずにカルテに書き込む雄一に向かって、三宅は言った。


「あんたももう少し人に優しくできんもんかね?」


「優しくしてるつもりですけどね」


「たしかにあんたは腕がある。おかげで昔よりも元気になりましたからな。だがあんたの態度はそれを驕ってるようにしか思えん」


「またその話ですか?」


「みんな言っとるよ。小さい子なんかあんたが怖くてたまらんみたいだ。小児科もやっとるのに、それじゃいかんだろ」


「僕には僕のやり方がありますから。文句を言うならとっととお帰りください」


「言われんでも帰るわい。こんなやつにちょっとでも金を払わなきゃならんとは」


 三宅が立ち上がろうとした時、雄一はカルテから目を離してある質問をした。


「そういえば、例の電話は最近もあるんですか?」


 問われた三宅は急に顔を蒼ざめさせた。


「あんまり大きい声で言わんでください。犯人がどこかで聞いとるかもしれん」


「ここは診察室です。うちのスタッフ以外に聞いてる人なんかいませんよ」


「そのスタッフが犯人なんてことは?」


「さあ。で、どうなんですか?」


「……昨日もかかってきたよ、また夜中に」


「じゃあ今日ですか」


「茶化さんでくれ。本当に怖いんだから」


「警察には言ったんでしょう?」


「一応近辺は調べてくれてるみたいですがね、事件になってないと下手に動けないみたいで」


「そうですか。もし眠れないなら、睡眠導入剤もおつけしましょうか?」


「いや、結構だ」


 三宅が診察室を出てから、次の患者のカルテを持ってきたスタッフが不思議そうに言った。


「珍しいですね、三宅さんに先生から話しかけるなんて」


「僕だって心配してるんですよ、三宅さんのこと」


「でも不思議ですよね、無言電話でしたっけ? しかも夜中に。わたしなら電話線切っちゃうかも」


 だが雄一は全く三宅のことなど心配していなかった。なぜならこの電話の主は彼自身だったから。



 病院が閉まり、スタッフ達もみんな帰宅してから、雄一は仕事終わりのブラックコーヒーを診察室で飲んでいた。椅子に腰かけ目をつむりリラックスしていた彼は、再び目を開き、デスクの引き出しから一冊の大学ノートを取り出した。その中には自身の患者の名前が各ページの左上に大きく書かれていた。名前の下には住所と電話番号、それから日付とメモ書き――。

 ある患者に関するメモ


「○月○日 薬を貰いに来院。今日も薬の効き目が無いと言い出す。うるさいババアだ。本当に効果が無かったら今頃救急車か霊柩車だ。これで記念すべき10回目。いつもよりも徹底的にやる」


 また別の患者について


「○月✕日 初来院。腸にポリープがあるかもしれないからと大きい病院を勧めるも、ここで治せの一点張り。訊けばどこかの大企業の重役らしく、入院によって自身の生活が縛られるのが嫌らしい。そんなこと知るか。初来院にしていきなりリスト入り」


 このノートにはもちろん三宅の名前もあった。彼にはよほどの恨みがあるのか、内容が一ページで収まっておらず、『三宅(1)』『三宅(2)』という風に別のページにとんで書かれていた。

 雄一はノートに記されている患者の中で、今日来院した人物について新たなメモを書き足し、そのページに付箋を貼った。新規でした者はいなかった。

 雄一はそのノートをカバンにしまい病院を出た。



 時刻は午前零時を過ぎた。食事と入浴を済ませ、雄一は例のノートを手に取り外に出た。

 彼が向かったのは、彼の住むマンションから歩いて五分程の場所にぽつんと立っている電話ボックスだった。昼ですら使われることのないこの公衆電話を、深夜の真っ只中に使うような人間はほぼいない。時間帯の面でもアクセスの面でも、そして相手側に履歴が残らないという状況も、全てが好都合だった。

 雄一は電話ボックスの中に入ると、例のノートのページをめくり、付箋の貼られたページを選んだ。

 プルルルル、プルルルル――コール音を聞くだけで、彼のストレス値は下がっていく。雄一にとってコール音は、小川のせせらぎや潮騒のさざめきと同じだった。


「もしもし」


 電話から女の声が聞こえてきた。しかし雄一は何も話さない。


「もしもし、どなたですか?」


 ………………………………。


「もしもし? もしもし?」


 すると電話の声は何かを察したらしい。


「もしかして、またあなた? あなたなの?」


 ………………………………。


 雄一は何も答えない。ただずっとにやにやしているだけである。


「何か答えたらどうなの? 聞いてるの? ねえ、答えなさいよ!」


 女の声が強さを増していく。それに反比例して雄一のストレス値もさらに下がっていく。


「いい加減にして! 二度とかけてこないでよ!」


 とうとう女は電話を切った。ツー、ツー、という余韻が、雄一にはたまらない。この音を聞くために、今日一日の仕事を乗り切ったと言ってもいい。

 雄一は毎日、こうしてストレスを解消していた。ある者は恐怖に慄き、ある者は涙にむせび、この無言電話に対峙していた。その声を聴くと、彼が日中に傷つけられた自尊心が容器から零れるほどに満たされていった。この電話をかけているときの尾高の脳内では、睡眠状態と同じ快楽物質が溢れていた。

 いくつかの患者に電話した後、いよいよメインディッシュに取りかかった。雄一は何度もかけた三宅の自宅の電話番号を押した。

 かなり長いコール音が鳴ったが、おそらく根負けしたのだろう、三宅がついに出た。


「もしもし、やっぱりあんたか? なあ、お前は一体何が目的なんだ? ええ? 何か答えたらどうなんだ……何も言わないのか……なあ、せめて笑い声くらいは出してもいいんじゃないか? 面白がってるんだろう? なら笑ってるはずだろう? おい、何か言ったらどうなんだ、おい!」


 三宅の怒号を満喫していた雄一の耳に、突然違う空気が流れた。


「おい、お前は誰だ。まさかお前が電話の奴か! そうなのか! おい、何とか言え!」


 言葉の相手は雄一ではないらしい。


「や、やめろ、何をする……おい、首、が……グワッ、グ……」


 雄一は思わず目を見開いた。三宅は何者かに首を絞められているらしい。「うっ」という小さな嬌声の後、向こうの受話器が床に落ちた音がした。

 慌てて雄一は電話を切り、ふらふらと電話ボックスから出た。

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